Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

28

公開日時: 2020年10月4日(日) 18:00
文字数:3,421

「しっかりつかまっていてくれ」

 

言うやいなや、ウィリアムは一直線に出口の方へと駆け出した。メアリの重さなどまるで感じていように、障害物を軽々と飛び越えていく。確かにメアリは小柄だが、片手で人一人を持ち上げて、こんなはやさで疾走出来るとは、半端な力ではない。


「あの、ウィリアムさん……」


「いいから、黙って。喋っていると舌を噛むし、煙も吸い込んでしまう」


 自分で歩くから下ろしてくれ、と言おうとしたメアリを、ウィリアムは低い声で遮った。確かに二人で歩くより、こちらの方が場所も取らずに素早く動けるし合理的だ。それを察したメアリは、少しでもウィリアムが動きやすいように、ぎゅっと縮こまるように身を竦ませた。頭から外套を被っているおかげで、火の熱さも煙も全く感じない。


 ウィリアムはメアリを抱えて、あっという間に玄関まで走り抜けるが、そこで一旦、蹈鞴たたらを踏んだ。


 人々が悲鳴と共に殺到したせいで、出口の辺りは凄まじい混雑が繰り広げられていたからだ。全く身動きがとれない。混雑と言うよりも、混乱だ。隙間無く人が詰め込まれて、少しの隙間もないくらいだ。


 こんな場所で火に巻かれたら、逃げだすことなど出来なくなるだろう。


「押さないで下さい、ゆっくり外へ……」


 従業員の必死の誘導の声も、我先に外へ出ようとする人々の怒号や悲鳴に掻き消されて用を為さない。将棋倒しに倒れる者や、更には踏みつぶされる者もいて、ここから無事に出るのはひどく難しそうだった。


 ウィリアムは、出口から外に出るのを諦めたようだ。メアリを抱えたまま踵を返す。他の場所を探すように、元来た通路を数歩駆けだした時だった。


 不意に、背後から凄まじい音がした。ガラスの割れる音と、人々の甲高い悲鳴が聞こえる。


 間近に聞こえたその音に、メアリが思わずそちらの方へ視線を向けると、そこには想像を絶するような悲惨な光景が広がっていた。


 一台の大きな自動車が、入り口の扉を破壊して、凄まじい勢いで玄関へ突っ込んで来たのだ。石油式ではなく、蒸気式の自動車だ。


 蒸気馬車の始まりは、一八〇一年にリチャード・トレヴィシックが発明した蒸気車に由来する。この時は轍にはまり、あえなく転倒したが、トレヴィシックはそれにより、線路の上を走らせる機関車を発明した。


 機関車の発明によって蒸気馬車は一旦忘れ去られたのだが、一八九〇年にフランシス・スタンリーとフリーラン・スタンリーの双子の兄弟が最初の蒸気自動車、『スタンリー・スチーマー』を発明したことにより、その人気は爆発的な物となった。倫敦の街を走る車の大半は馬車であったが、石油式や蒸気式の自動車も最近は多いのだ。


 運転手の姿は何処にもない。あり得ないが、無人の自動車のようだ。何人かが轢かれていた。更には下敷きになっている者もいるようで、床へと見る間に赤い血だまりが広がっていくのが見て取れる。


 メアリが息を呑んだ一瞬後、唐突に自動車が爆発した。その爆風を浴びる前に、ウィリアムがまたメアリの体を抱きしめて庇ってくれるが、至近距離からの爆発は、それでも凄い衝撃だった。


 悲鳴を上げないのではなく、悲鳴さえ上げられない、それほどの衝撃だ。爆炎よりも先に蒸気の白い煙が視界を遮る。


 その白い色に、どくん、と心臓が大きく脈打った。


――あの時と、同じだ。


 目の前の光景に、あの日――十二年前の事故の光景が二重写しで甦る。



 つんざくような汽笛。

 金切り声のようなブレーキの音。

 父がメアリの上に覆い被さり。

 そして、凄まじい衝撃。

 破裂するパイプに舞い散る金属。

 生暖かい、ぬるっとした、鉄の香りのする液体。

 目の前に広がる、幾つもの赤、朱、紅、赫、緋。

 呻き声。

 悲鳴。

 前方で火の手が上がり、真っ黒な煙が視界いっぱいに広がっていく。

 体中のあちこちが焼け付くように熱かった。

 お気に入りの外出着が、みるみる赤く染まっていくのが酷く怖い。

 火事の煙に巻かれて、喉が痛くて、涙が零れる。


 しかし、それよりも怖かったのは、だんだんと冷えていく、自分に覆い被さる父親の体だった――。



「大丈夫?」


 悪夢の記憶からメアリを呼び戻したのは、低いが、しっかりとした銀の声だった。闇の中を切り裂くような、灼かな光にも似た銀色だ。


 はっと我に返ると、目の前にウィリアムの顔がある。さっきの爆発で飛ばされたものだろうか、その頭には帽子が無く、やや髪が乱れていた。


 彼の蒼い目――濁りのあの赤とはまったく真逆のその色に見つめられると、何故だか過去の風景が、薄まるように遠のいていく。こんな時なのに、メアリは思わずその目に見惚れてしまった。その目の蒼を見ていると何故か不思議に焦りだとか恐怖が溶けるように消えていく。がちがちに強張った体から、ふっと一気に力が抜けた。


「すいません、大丈夫、です」


 震える声で、それでも断然きっぱりと告げるメアリに、ウィリアムはほんの僅かに疑わしそうな目をしながらも、それでも安堵したように言った。


「なら、良かった。ここは危ない。上に行く」


 ウィリアムはすぐに立ち上がり、メアリを抱えたままで、手前の階段を一気に駆け上がる。


「上って……」


「二、三階程度の高さなら、君を連れていても無傷で飛び降りられる。僕は必ず君を守るから、心配しなくていい」


 確かこの先の踊り場には、館内にひとつしか無い窓がある筈だ。ウィリアムは、そこから外へ脱出するつもりらしい。確かに出口はもうそこしかない。ウィリアムと一緒なら、二階から飛び降りても平気だろう。


 不意に階段の真横の本棚が崩れ落ち、火の付いた梁が二人の真上に落ちてくる。メアリは小さく悲鳴を上げて、目を瞑り、ウィリアムにしがみついた。


 ふっと目の裏に、いつかの紫電の光が走る。はっと目を開けると、何故だか既に火の消えた柱をウィリアムが片手で支えていた。ウィリアムはその柱を軽く押しやり、大丈夫だというように小さく頷く。


 一体何があったのか、メアリにはさっぱり分からなかったが、それを訊くのは今の状況では無理だろう。とりあえず頷き返し、メアリは改めてウィリアムにしがみつく。


 踊り場に辿り着くと、ウィリアムは静かにメアリを床へ下ろした。二階にも従業員がいるはずなのに、何故だか、様子を見に来る者は居ないようだ。メアリはゆっくり辺りを見回す。


 視界の隅に、何か奇妙な音が見えた。人の足音ではあるが、なんだかそれが、地面ではなく、壁の側面に沿っているのだ。咄嗟にそちらへ視線を投げると、東洋人の老紳士が、白人の老紳士を背負ったまま、書籍販売室から飛び出してくるのが見えた。彼はそのまま炎を避けて、壁を駆け抜け、メアリ達と正反対の中二階へと到達する。一旦は火を避けた、というような風情だった。


 ウィリアムと同じような芸当を、東洋人の老紳士も軽々とやってのけたということに、メアリは酷く驚いた。重力に逆らって壁を走るというのは、メアリが良く知らないだけで、案外普通の事なのだろうか。


 しかし、驚いているわけにも行かない。炎は決して勢いを弱めることなく、紙を燃料にして、ますます盛んに燃え上がる。このままでは、二階だって火の海になるのは近い。


 一週間前と同じく、今のメアリにはあらゆる物の音が『見』えている。その音は炎の音以外にも、紙が焼けてぱりぱり鳴る音や、人々の悲鳴や呻きなど様々で、目が眩むような感じがした。数字の洪水だ。


 幸いにもまだ火の手はここまで迫っていない。けれど、一階は火の海だった。階下では一部の勇敢な人々が必死で消火活動を行っているようだ。しかし、焼け石に水どころか、水を掛けても火は消えず、益々盛んに燃えていく。


 階下から逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえる。唯一の出口を蒸気自動車にふさがれたせいで、逃げ場を無くし、如何すれば良いかわからないという絶望の声だ。ウィリアムはそれに頓着せず、踊り場の窓ガラスに向かって腕を振り上げる。とりあえず、当初の予定通りにここから脱出するのだろう。


 その瞬間、メアリの思考の中で、何かがちかっと閃いた。数字の洪水の中を、天使の梯子のような光が射した感覚だ。


 そうしてメアリはその光の中に、不思議な光景を見てしまう。


 窓硝子が割れた後、一拍おいておこる逆気流。それに煽られて爆発する炎の幻影が、目の前に、ぱぁっと広がる。


 あの列車事故――過去の記憶が引きずり出され、そうしてそれが目の前の光景と二重写しになる。否、メアリが幻視たのは、もっと酷い未来だ。有名な一六六六年の倫敦大火の、作者不明のあの絵が浮かぶ。

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