ウィリアムが立ち上がった瞬間に、クロスボウの矢が放たれる。しかし、今度もまた、それらが青年の肉を裂くことは一切なかった。青年は無造作に体を捻り、誰かと狭い道をすれ違うような動きでそれを避ける。
男達の間に、ほんの僅かの動揺が走った。
「――なべてはその生まれ来たる元素へと還っていく。肉体は土に、血は水に――」
ウィリアムの銀色の声が、何かの詩を小さく呟く。その瞬間、メアリの目には、彼の胸――多分心臓の上あたりに、数字を纏った小さな光が一つ弾けるのが映る。それは、どこか灼かな、音の発する光の色だ。
何処までも蒼く、淡い尾を引く光だった。蒼と紫が織りなすグラデーションの光というべきなのか、それとも他の何かというべきなのか。ごく希に雷がこんな色を放つことがあるが、音にこんな色が付くのをメアリは『見た』ことがない。見える数値も九だけというシンプルさだ。
耳には決して聞こえない音であっても、今のメアリはそれを『見て』しまう。それは、生死の境にいるときにだけに起こる現象だ。
だから、それが見えたのも、多分何かの偶然だった。ウィリアムの変化に、きっとこの場にいる誰もが気付いていない。
あまりにも無造作に踏みしめられた青年のその一歩は、二歩目には疾走に変わる。一気に距離を詰め、ウィリアムは、一瞬で男達の目の前に移動していた。
彼の右手が静かに挙がる。その指先に、あの数を纏った蒼い光が凝っているのをメアリは見た。きっとそれは、普通の音とは違うものだ。熱のない炎のようなヴィジュアルの音など、メアリは知らない。
火の灯った指先が、軽く一人の男の額に触れる。その瞬間、指先からその蒼い数字が散った。稲妻そっくりな、あの色に触れられた途端、その男が、がくんと膝から崩れ落ちる。白目を剥いて口から泡を吹いているのが遠目からでもよく見えた。
二人目、三人目も同じように額に触れるだけで倒れていく。
我に返ったように、四人目と五人目が同時に銃を構える。しかし、それらから放たれた数発の弾丸は、ウィリアムに当たることは終ぞ無かった。銃口が向けられた瞬間に、ウィリアムは銃身を掴んで明後日の方向に向けている。銃身に触れた途端に、耳には聞こえない音が弾けるのが見えた。何故か男達が銃を手から取り落とす。
あとは前の三人と同じだ。瞬きの間に、ウィリアムが四人目と五人目も伸してしまう。相変わらず額へ軽く触れただけであるので、伸す、という表現が正しいかどうかはわからないが、兎にも角にも、この青年が、一瞬で五人の男を倒してしまったのは事実だ。
「今のは、一体……」
あっけにとられて呟くメアリに、教授が静かに答える。
「あれは腕っ節が強いからな。安心したまえ、全員命に別状はない。手加減は一応している」
ただ触れただけで大の男が失神させられるというのは、腕っぷしが強いというような問題だろうか。もっと他の理由な気もする。しかし、教授の言葉に嘘は一切感じなかった。ウィリアムは、手際よく失神している男達を縛り上げると、こちらに戻りながら言う。
「教授。こちらはすべて終わりました」
本当に何一つブレない声だ。メアリはただ、ぱちぱちと目を瞬かせる事しか出来ない。さっきまでのあの死の恐怖はもう何処にもなかった。
助かった。否、助けられた。
改めてそう思う。安堵した途端、体中の擦り傷がずきずきと自己主張をはじめるが、しかし、彼等にお礼を言うのが先だと思った。
メアリは走りすぎて膝が笑う体を叱咤して、ふらふらと立ち上がる。教授とウィリアムに向かい、丁寧に頭を下げてお礼を言った。
「ありがとうございました、本当に助かりました」
命の恩人に対してもう少し気の利いたことを言いたかったが、しかし、感謝の気持ちが大きすぎて、逆に他の言葉が出てこない。
「何、気にしなくても良い。こちらこそ、君を助けられて本当に良かった。なぁ、ウィリアム」
淡々と告げられた教授の言葉に、ウィリアムも静かに頷く。ウィリアムはポケットからハンカチを取りだすと、メアリに無造作に差し出した。
「今、湯を沸かしてくるから、それまではこれで血止めを」
その言葉に、メアリは思わず自分の頬を指で触れる。その瞬間、ぬるっとした液体の感触と、ぴりっとした痛みが走った。慌てて指先を見ると、赤い血が付いている。どうやら、あの時避けたクロスボウの矢は、メアリの頬を掠めたときに傷をつけていたらしい。
「ありがとうございます、でも、これではハンカチが汚れて……」
ウィリアムは皆まで言わせなかった。そのまま無言でハンカチをメアリの頬に押し当てると、教授に向かって言う。
「少しこの場を離れます」
その声には、ほんの少しだけゆらぎがあった。元の声が纏う数が二、六四七八だとしたら、今の数が二、六五八八になったくらいの、ほんの僅かな感情のゆらぎだ。だからそれが何を意味するのか、メアリにはわからない。
ウィリアムの言葉を受けて、教授が静かな声で言う。
「わかった。彼女は私が見ていよう」
さっきと同じような物言いだが、しかし、面白そうなあの色はすっかり形を潜めている。元通りの闇色の声だ。
それを確認した跡で、ウィリアムは静かに礼拝堂を出て行った。教授と二人きりになり、メアリは少し緊張をする。
頬に当てられたハンカチからは、石鹸の良い匂いがした。緊張が解けてきたせいだろう、だんだんとメアリの目に映る音の色と数字の種類が、十分の一程に減っていく。さっきのように精神が過敏な折は、メアリには聞こえない筈の音をも『見て』しまうが、落ち着けば、耳が拾える程度の音しか『見えなく』なる。そのおかげで、ゆっくりと目の前の教授を観察することが出来た。
命の恩人を観察するというのも不躾な話だが、しかし、この老紳士もあの青年も、なんだか普通ではないようにメアリには思える。里親に捨てられて以降、メアリには、初対面の人間をとにかく観察するような癖が付いてしまっていた。
教授というだけあって、彼は良く書き物をするようだ。手首の動きでそれとわかる。アルバート(時計用の鎖)の長さから察するに、性格は几帳面で、そうして常に何かを考えているらしい。フロックコートはかなり上等な仕立てのようで、ウェストコートもズボンもそうだが、先ほどの青年のディットーズとは違い、既製品の類いではないようだ。きっと金銭的に不自由はしていない。指先に僅かに焦げの跡があることで、この人は煙草を吸うが、パイプではなく葉巻か紙巻きを好み、そうして多分、恐ろしく頭が良いというのもわかる。
現段階で、メアリが読み取れたのはそれだけだ。その他のことはどうにもわからない。なんとなく、彼等は他の人とは違うのだ。
頭の中で情報を整理する時のメアリは、どうもかなりぼんやりした顔をしているらしい。教授がやや心配するように言った。
「傷は痛むかね? 頭を打ったりはしていないのだろう?」
「あ、はい、大丈夫です。なんだか緊張の糸が切れてしまって……」
実際それはかなり正直な感想だ。仕事から家に戻る最中に、謎の男達に襲われて、そこからずっと逃げっぱなしだったのである。擦り剥いた手足が今頃痛い。
「それはそうだろうな。君が無事で本当に良かった」
沁々と呟かれるその声は、相変わらずの闇色なのだが、ほんの僅かに数字が変わる。けれども、本当にそう思っているのか、それとも嘘をついているのかはよくわからない。
「あの……、先ほどから不思議なのですが、どうして貴方は私のことを知っているのですか?」
恐る恐る訊いてしまったのは、素直に疑問だったというのもあるが、なんとなく、それを知るべきだと思ったからだ。
メアリは自分の直感を信じている。直感というのは、全人格を賭けた刹那の判断であるからだ。果たして教授は、ほんの僅かに目を細めて言った。
「少々込み入った話だからなぁ。フォークス司祭から直接話を聞いた方が、きっと君も納得できる。司祭が戻るのは直だ。それまですこし待っていたまえ」
彼が司祭の知り合いだというのは、先ほどの会話からでもわかっている。司祭はメアリが全幅の信頼を置く数少ない大人の一人だ。司祭に聞けと教授が言うのなら、そうするのが良いかもしれない。とりあえず、教授の声に嘘は見当たらないのだから。
ぎこちなく頷くメアリに、教授がほんの僅かに微笑んだ。あの声のままで言う。
「一つだけ言えることがあるならば、私は君に、幾つかの選択肢を用意しに来た。君には選ぶ権利があるからだ」
「選ぶ?」
「そう、選択肢の数は未来の数だ。しかし、人間が選べるものは、ひとつにひとつ、二つは選べない。幾つもの可能性があったとして、結局人は、自分が選んだものしか手にできないのだ。君は、何を選ぶかね?」
唐突に告げられた、選ぶというその言葉。闇色の声は些かもゆらぐことなく、真っ直ぐにメアリに向かって発せられる。
その言葉を信じるか、信じないか。
――それが、すべての始まりだった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!