ウィリアムの言うとおり、地下鉄は空いていた。駅から教授の家までは、半マイルにも満たない。馬車を出して貰わずとも、これならば何処にでも行ける、とメアリは少し嬉しくなった。父と自分が住んでいた、あの港町にも行けるだろう。
まだ五時過ぎだというのに、あたりはすっかり真っ暗だった。ガス燈の明かりに照らされながら、影を踏んでメアリは歩く。
ウィリアムは相変わらずメアリの隣で、特に表情を変えることなく歩いている。小柄なメアリの歩幅に合わせ、殊更ゆっくりと歩いてくれているようだった。ウィリアムが、ふと空を見上げて言う。
「今晩あたり、雪になるかも知れない」
つられて空を見上げると、真っ暗な空には、分厚い雪雲が立ちこめていた。なんだか、妙に胸がざわめくような、そんな黒さだ。
「倫敦は雪が多いんですか?」
メアリの問いに、ウィリアムがほんの僅かに考えて答える。
「冬の間の半分は雪かな。案外雨も多いけれど」
「私がいたイーストボーンも、結構雪が降ったんです。元から修道院は静かでしたが、雪が降ると更に静かになって、誰も居ない教会の中に居ると、なんだか世界で一人きりになってしまったような、そんな気持ちがしたものです」
修道院には、メアリと同じ年頃の子供は誰も居なかった。修道女達は親切だったが、しかし、友達にはなってくれなかったのだ。
「雪が積もると、田舎では周りの音が総て消えてしまって、夜に一人で眠るのが苦手でした。どうしてでしょうね、暗闇よりも静寂の方が怖いなんて」
普通、逆ですよね、と笑うメアリに、ウィリアムがぽつりと言った。
「僕にも似たような記憶がある。教会の中、カルペ・ディエムの旗の下で過ごしていた頃の記憶だ。その時の僕はまだ、『一人きり』というのが『寂しい事』だなんて知らなかった」
そう言うとウィリアムは、ほんの僅かに躊躇うようにメアリを見た。その視線に気付いたメアリが見上げると、ウィリアムはまた静かに目を逸らす。
なんだか、この青年が自分の話をするようなイメージがなかったメアリは、不思議な気持ちでウィリアムを見た。何故だかこの人の事を知りたい気持ちが昨日から強くある。
メアリの計算の解を完璧に理解し、その通りに実行する正確無比さを持ちながら、マシュー・アーノルドの詩を口吟む、そんな揺らぐような詩情を持つこの矛盾。見かけ以上に老成ているようなのに、実は恐ろしいまでに感情を表に出すのが下手な所や、何事にも動じない風でもあるのに、ビリーやラーゼスへの態度から察するに、案外気が短そうな所に、何処とはなしの幼さを感じる。
「ウィリアムさんも、教会にいたんですか?」
「独逸の修道院に、長い間。当時の記憶は僕には殆ど無いけれど、ただ、そう言う記録があるのは知っている」
その答えにメアリは、ビリーがウィリアムを独逸製と言ったのは、そう言う理由かと合点する。家族の事は聞けなかった。教会に居る子供は、奉献児童か、あるいは孤児だ。神に捧げるという名目で捨てられたか、元からの親無しかの二択である。
ウィリアムも自分と同じだ。その事に、メアリは親近感を覚えてしまう。それは喜んではいけない事なのに、どこかで嬉しいと思う自分がいて、それが浅ましくて、メアリは自分に自己嫌悪を覚える。
自分を羞じて思わず俯くメアリに、ウィリアムが小さく言った。
「……僕が自分の事を我から誰かに話すのは、きっと君が初めてだ。君と僕は、多分同じだ。だからだろうか」
無感情なその声は、しかし、奇妙に優しいふうにメアリの耳には届く。気遣ってくれているようでもあり、また、諭してくれている風でもある。
メアリは、その言葉に何故かとても安堵した。思わず微笑み、言った。
「似たもの同士、なんですね、私達」
自分で言った言葉が嬉しい。ひとりぼっちではないという証明だからか。
気がつくと、ウィリアムとの距離はかなり近しくなっていた。
自分から距離を詰めた訳ではない。
ウィリアムが距離を詰めてきた訳でもない。
当たり前のように、なんとなくそうなっている。不思議だと、そう思った。ウィリアムは何も言わない。ただ、メアリと肩を並べて歩き続ける。
何故か、懐かしい。そう思った。
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