「……大丈夫?」
低い、そうして無感情なその声は、しかし、何処か不思議と優しいように耳に聞こえた。この声の主が自分を抱き止め、転ぶところを助けてくれた、と気付くのに少しかかった。
「だ……」
大丈夫です、と言いかけて、顔を上げたメアリは思わず息を呑む。驚くほど近くに青年の顔があったからだ。どうやら抱き止めて貰った時、彼は膝を撓めてその衝撃を殺してくれていたらしい。
青年の顔立ちはとても整っていて、まるで役者のようだった。しかし、メアリが息を呑んでしまったのは、そのためでは無い。その瞳が、あまりに綺麗な蒼だったからだ。
青年の瞳は、まるで宝石を削り出したかのように酷く蒼く澄んでいた。細かな光を反射するように眼球の表面が微かに揺らめく。こんな綺麗な色の蒼い瞳は初めて見た、とメアリは思う。
空の青でも無く、海の碧でもない、何にも例えられないような深い蒼――。
宝石のような蒼なのに、瞳孔を巡るように金色の縁取りがあり、中心には濃い緑の滲みがあることが不思議だった。なんだかそれは、酷く懐かしい色のようにメアリには感じられる。この蒼を、自分は何処かで知っていた。
曲げた膝を真っ直ぐ伸ばすと、青年はメアリより一呎も背が高い。無造作な黒髪は、その目の蒼とよく似合った。
その蒼は真っ直ぐにメアリを見つめてくる。
青年の手が無造作に動き、長い指の背で、躊躇うようにメアリの右頬に触れた。ひやりとした冷たい感覚が、火照る頬に気持ちいい。
「この傷は……」
彼が何かを言いかけたとき、不意に背後から声がかかった。
「こんな夜中に礼拝というわけではなさそうだ。何があったね、お嬢さん」
闇色の数字を纏った、低い声だ。背後の闇に溶け込むように、その数字が僅かに瞬く。メアリは思わず青年に縋るようにして、声のした方向に目を向ける。そのついでに礼拝堂の中も見渡せたが、司祭の姿は何処にもなかった。メアリはその事に、ほんの少し動揺する。
声の主は、フロックコートの、至極身なりの良い老紳士だった。彼はすこぶる背が高く痩せていて、白くカーブを描く突き出た額を持ち、深く窪んだ眼をしている。髭は綺麗に剃られ、青白く、苦行者を連想させた。あの闇色の声からは想像も出来ないほど、彼は普通の人間だった。
「貴方達は……」
人に名前を訊くときは、自分から名乗るのが礼儀だが、しかし、メアリにその余裕は全くない。老紳士もそれを察してか、咎める事は言わなかった。あの闇色の声で言う。
「私はアルフレド・ジェイムズ。ただの数学教授だ。そっちは助手のウィリアム。ここの司祭と、少し大事な話があったものでね」
「司祭様のお知り合いですか?」
メアリの問いに、ジェイムズと名乗った老紳士は静かに頷く。
「そうだ。彼は今、所用があって席を外しているのだが、もうじき戻ってくるだろう。君も、彼に用事があってきたのだろう? こんな夜更けに、そんなに息を切らせて、一体何があったのかね?」
「それは……」
問いかける老紳士に、メアリが事情を説明しようとしたその時だ。不意にウィリアムという青年が、メアリの体を抱き上げた。俗にいうお姫様だっこという奴である。
「!」
予備動作も何もなかったせいで、声を上げることさえ出来なかった。硬直するメアリに構わず、ウィリアムは素早くその場から、大きく後ろへ一歩飛び退く。
視界の隅に、灰色の数字を纏った音が、ヒュン、っと風を切るのが見えた。つい先刻、感じたばかりのあの色だ。
直前まで二人が立っていた場所の延長線上にある壁に、クロスボウの矢が三本突き刺さった。メアリの目には、鋼特有の灰色を纏った数字が、漆喰の薄緑の数字とぶつかり、小さく三度、ぱっと弾ける。
「教授」
銀色の声はまったくブレない。教授と呼ばれた老紳士は、学者とは思えない程の素早い身のこなしで、並べられている机の間に身を隠した。一拍おいて、どやどやと、妙に身なりの良い五人組が礼拝堂へ飛び込んでくる。その足音が纏う数字から、霧の中、メアリを追っていた連中だとすぐにわかった。
彼等は一様に上品そうで、仕立ての良い外套と帽子を身につけている。目深に帽子を被っているせいで、顔形まではわからない。しかし、その身から放出される雰囲気は、どうにも普通の人間ではなかった。なんというか、訓練された軍人、或いはそれに準ずる組織に所属するように、規律的でかっちりしている。
五人のうち三人は、その手にクロスボウを持っていた。残りの二人が素手かと言えばそうではなく、拳銃が握られている。町中だということを考慮してか、音の出ないクロスボウをメインに使い、そうして万一に備えて拳銃を用意している、という感じだろうか。
男達は警句一つあげることなく、立て続けに二人に向かってクロスボウの矢を放つ。確実に殺すつもりなのだろう。距離を開け、何処に退いても逃げ場がないような絶妙な狙撃だ。逃げられないと、メアリは思わず目を瞑る。しかし――。
「大丈夫。僕を信じて」
先刻から数字のまったく変わらない銀色の声でそう呟くと、ウィリアムと呼ばれた青年は、度肝を抜くような方法でそれをすべて避けきった。
この青年は、軽々とメアリを抱えたまま、ほぼ垂直に壁を走りだしたのである。重力を無視するような疾走だった。
流石にそれは想定していなかったのか、クロスボウの矢はまったく見当違いの場所に刺さる。男達が新しい矢をつがえる僅かな間に、ウィリアムは地面から跳躍するが如くに壁を蹴った。そのまま、教授のいる机の隙間に滑り込む。
一応の安全地帯に辿り着くと、ウィリアムは、静かにメアリの体を地面に下ろした。当のメアリは、驚きすぎて声もない。
床にしゃがんで身を屈めていた教授が、特に動じた様子もなく言う。
「……なるほど、君がここに逃げ込んできたのは、つまりはそういう理由かね?」
相変わらずの闇色の声だったが、纏う数字がほんの僅かに跳ね上がる。これは、面白がっている反応だろうか。
メアリは心臓がばくばくとしてしまい、何も答えることが出来なかった。代わりに、阿呆のように、何度も何度も頷いてみせる。
一方でウィリアムはまったく何も変わらない。こんな時なのに、表情一つ変えることなく教授に言った。
「教授。どうしますか?」
流石に声を潜めてはいるが、銀色がブレる様子もなく、纏う数字も一定だ。この状況にも、まったく動じていない。
その問いに、面白がっているという証の数字を纏っているのも関わらず、淡々とした口調で教授が答えた。
「このお嬢さんを引き渡したとしても、我々が無事に見逃されるわけもない。であるのなら、まぁ、ここは彼等を始末してしまった方がいいだろうな」
「わかりました。しかし、素手だと手加減が少々難しいですが」
ウィリアムの言葉に、教授が僅かに口の端を歪めて言った。
「丁度良かろう。その方が後腐れがない。しかし、面倒なことになったものだな」
闇色が少しばかり濃くなったが、しかし、それは面白がっている度数が上がった証拠だとメアリには見えた。こんな状況なのに、この教授はとても面白がっていて、そうしてウィリアムにはまったく変化がない。
この二人は何者なのか。こんな状況で面白がるなど普通ではない。けれど、この二人を巻きこんでしまったのは自分なのだ。それなのに、彼等の言葉に呆れるなんて、浅ましいにも程がある。
「本当にごめんなさい……」
いろんな意味で、メアリが心からの謝罪をすると、教授が静かに首を振った。ゆったりとした、断言に近い言葉で告げる。
「謝る必要はない。これはおそらく、必然であるのだから、メアリ・ジズ嬢」
「え?」
唐突に名前を呼ばれ、メアリは酷く戸惑った。何故この人は、自分の名前を知っているのだろう。ファーストネームだけであるなら、さっき礼拝堂に飛び込むときに名乗ったからわかる。しかし、教授は、今、メアリのフルネームを呼んだのだ。
怪訝そうな顔のメアリに、教授が唇の端を軽く吊り上げて言う。
「理由は司祭が戻ったら話そう。そうか、君が、ギルバートの……」
闇色の声に、初めて暖色のような何かが混じった。しかしそれはほんの一瞬で、すぐに消え去る。教授はあの闇色の声で、ウィリアムに向かって言った。
「さて、ウィリアム。彼女は私が見ていよう。心配はいらない」
「……頼みます」
短くそう言うと、ウィリアムは何故か一瞬だけメアリを見る。唐突に、本当に無造作に立ち上がった。
「危な……」
あまりにも無造作だったので、メアリは思わず声を上げてしまう。しかし、警告の言葉は最後まで発せられることはなかった。
目の前で起こった光景が、あまりに信じがたいものだったからだ。
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