Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

11

公開日時: 2020年9月17日(木) 18:00
文字数:4,663

 空は何処までも青かった。あとすこし、ダラムという駅で降りると、父親は言う。そこには、『おじいさま』が住んでいるらしい。はじめて『おじいさま』に会いに行くメアリは、お気に入りの白いドレスを着て、列車の窓から流れる景色をはしゃいで見ていた。


 コンパートメントの中には、父親とメアリの二人しか居なかった。随分と立派な客車で、座席もどこかふわふわだ。


 父親は、とても優しい目でメアリを見ていた。いつも仕事で忙しく、殆ど家に帰ってこない父ではあったが、休みの度に、こうしてメアリを遊びに連れて行ってくれる。


 母の記憶は何もない。メアリを産んで、すぐに亡くなってしまったからだと、父は言う。


 母のない娘への贖罪だろうか、父親は本当にメアリを可愛がってくれた。仕事で忙しいのにもかかわらず、よく遊んでくれたものだ。休みの度に船に乗せてくれていたし、長期休暇になれば、こうして汽車に乗って、田舎の観光地へも連れて行ってくれる。


 父は先生という仕事をしていて、何日、何週間も帰ってこないことも良くあった。その度にメアリは、近所の教会に預けられていたものだ。寂しかったけれど、お仕事ならば仕方ないと、そうやって割り切るしかなかった。父が遊びに連れて行ってくれるのも、おそらくはその穴埋めだろう。


 本当は、メアリは、父親と一緒に過ごせるのならば、どこかへ遠出をしなくてもいいのだ。家の中で一緒にいてくれるだけで幸せだった。けれど、やっぱり父親との遠出は楽しくて、ついついこうやってはしゃいでしまう。


 メアリが楽しそうに笑うのを見て、少し切なそうに父が呟く。


「……『人が思い違いをしているのは、自らの幸福が、人生の真実の目的だと考えている部分ではない。人の思い違いとは、世界が自分に幸福を与えるためにのみ存在していると、そう夢見る部分にある』、か……」


「おとうさま?」


 急に何かの詩を呟く父親を、メアリは不思議そうに見る。その視線に気付いた父が、ぎこちなく笑ったようだ。


 ゆっくりと手を伸ばし、幼いメアリを抱き上げて言った。


「知的解放の代償として、神への信仰を失った者のうただよ。『――沈黙の中で苦しむことを厭う我々は、我々が耐えるべき不幸の原因を、真空地帯に作り出した神々に押しつける。そうして神や運命を罵ることで、我等はその苦痛を和らげるのだ――』。いいかい、メアリ。この世界に神々は居ないんだよ。人々を苦しめる神も、その苦しみから人々を救ってくれる神も居ない。それらは、人間が勝手に作り上げた妄想だ」


「……もうそう?」


 父親の言うことは、たまに難しすぎてよくわからない。不思議そうに首を傾げるメアリを抱きしめ、父が言った。


「神は死んだ、そうかもしれない。だが、怖れることはない。だからこそ、自分の力で運命は切り開ける。お前には、その力があるからだ。お前は――」


 丁度、汽笛の音に掻き消され、語尾がよく聞き取れない。


「おとうさま、何を言っているの? よくわからないよ……」


 急に抱きしめられ、メアリは困惑するばかりだ。父はどうやら泣いているようだった。それを見ると、メアリの胸も痛くなって、すごく悲しい気分になった。


「おとうさま……」


「メアリ、いいか。お前は生きることを『選ぶ』んだ。何があっても、必ず『生きろ』」

 父が囁いたその瞬間。

 ものすごい音と、そうして強い衝撃が体を襲った。

 世界が一瞬で、紅く染まった。


       ※    ※    ※


 襲い来る衝撃に、メアリは、思わず眼を見開いた。何もない。周囲はとても静かで穏やかだ。


 酷く汗をかいている。


 薄ぼんやりとした光の中で、天井が真っ先に目に入った。今まで自分が住んでいた貧相な部屋とはまったく違う、重厚で立派な作りだ。


 ここは何処かと一瞬考え、すぐに、フィッツロヴィアの教授の家だと思い出す。メアリはベッドの中で、ほっと安堵の溜息を吐いた。まだ、心臓がばくばくしている。


 また、あの夢か、と、そう思った。


 何か自身に転機が訪れる度、メアリは必ずあの夢を見る。十二年前の、あの列車事故の夢だ。涙を流していないのは上出来だった。以前は必ず泣きながら目を覚ましたものだが、今ではこうして『平気』でいられる。


 メアリは、泣くのが嫌いだった。泣いたって哀しみが薄れるわけでも無い。逆に、益々哀しみが深くなるようで、だから泣かずに済むのなら、それに越したことはない。


 泣かない代わりに、メアリは、ぼんやりと数時間前のことを思い出す。



 教授から渡された手紙は、確かに父からのものだった。便せんに綴られているのは、見覚えのある懐かしい父の文字に間違いは無い。


 手紙の内容は至極簡潔なもので、要約すれば『自分に万が一のことがあった場合は、自分の遺産の半分を報酬として、アルフレド・ジェイムズ教授を娘の後見人に指名する。残りの半分は娘の養育費に当てて欲しい。猶、自分の娘には数学の才能がある。できればこの才能を生かせるように導いてほしい』というような内容だ。まるで遺言状のように思えるが、死が想像以上に身近にあるこの時代では、節目節目にこういう手紙を残す事も別に珍しくない。成人して、家族やある程度の財産を持った者は、大抵が万一に備えてこういった手紙を弁護士や銀行に預けて遺すものなのだ。


 英国では、女性には遺産の相続権がなかった。それ故、メアリには法的に財産を受け継ぐことが出来ない。だから父は、それを《養育費》として残そうとしたのだろう。


 遺産の半分を手に入れる筈の教授は、しかし、闇色の声のまま、はっきり言った。


「誤解しないで欲しいのだが、私は別に、提示された報酬など特に要らない。父君の遺産の半分を預かりはするが、いつか君にしかるべき相手が見つかった折は、持参金として渡す予定だ。私がここに来たのは、君の数学の才能に興味を持ったからだよ」


 驚くほどに色にも数字にもブレがない。本心からの言葉であるのは明白だった。それに驚き、メアリは尋ねる。


「数学の才能……ですか?」


 数学の才能というのは、この、音が色の付いた数字に見えるという目のことだろうか。数学の才能がある人は、こういう力があるのだとしたら、自分一人だけではないというある種の希望だ。他人と違う、自分一人だけの世界というのは、これはこれで生きにくい。


 メアリの言葉に、教授は深く頷いた。


「左様。君のお父上はとても優秀な数学者だったのだ。だから、娘である君も、お父上のいうとおり、数学の才能があるという可能性は大いにある。私はそれを確認するため君を探していたのだよ」


 教授は微かに闇色の声を濃くして言う。


「一つ尋ねるが、君は、音を数字で捕らえることはないかね? 或いは、数字に色が付くであるとか、色に匂いを感じるとかでも良い。一つの事象を捕らえるときに、二つ以上の感覚を覚えることはないだろうか」


「ええ。私は音を聞くと、それに色が付いた数字を纏っているのが見えます。その事をおっしゃっているのでしょうか……?」


 ほんの少し躊躇いながら、メアリは正直に教授の問いに答えた。別に秘密にしているわけではないが、それを誰かに話す度に気味悪がられる為、メアリは自分の視界の事を殆ど話さない。気味悪がられる程度ならまだ良いが、嘘つき扱いされることさえあるからだ。


 しかし、教授はそれを聞いても気味悪がるというようなことは一切無かった。逆に、感心したように小さく呟く。


「音を色と数字で感じるのみならず、それを視覚化も出来るのか……。素晴らしい」


 闇色の声が一瞬だけ明るくなった。色が明るくなるときは、大体が、しんから感心している証拠だ。初めてそれを肯定されて、メアリはどきりと胸が高鳴る。


「素晴らしい……?」


 今まで言われたことの無い言葉に、思わずメアリの語尾が上がった。それを聞き、教授がはっきり頷いた。


「ああ、素晴らしいさ。君のそれは、俗に共感覚と呼ばれるものだ。例えば高名な音楽家の中に、絶対音感という、ある楽音の高さを他の音と比較しないで識別できる能力を持つ者がいる。音の捉え方はそれぞれだが、中には音を数字で認識する事でよりはっきりと識別できるタイプもいるそうだ。君の場合はそれに近いが、色と数字、両方で感じるということは、更に詳しく分析が出来ているということだ。それは希有な素質だよ」


 絶対音感がなんなのか、メアリにはよくわからないが、しかし、教授の言葉に嘘は無かった。だから、彼は本当のことを言っているのだとそれでわかる。教授がここまで感心するのだから、余程凄いことなのだろう。


 教授がしみじみとした声で言った。


「数学というのは、数・量・空間などの性質や関係について研究する学問の事だ。君の能力は、直感的にそれを理解し、分析している。君のお父上の言うとおり、君には天性の数学の才能があるのは間違いないだろう」

 心からの賞賛だった。


 今まで誰からも気味悪がられ、或いは信用されたことのない『それ』が、初めて他者に肯定されるという事に、メアリは少し泣きそうになる。しかし、教授はそんなメアリに気付くことなく、更に話を続けた。まるで、試すような声で言う。


「では、改めて君に問うが、二十一の階数と、十八の階数、そうしてそれを乗算した答を教えてくれないかね?」


 唐突な問いだった。傍らで黙ってそれを聞いていたウィリアムが、メアリにペンと紙を差し出そうとする。しかしメアリはそれが差し出される前、教授の問いから一秒もたたないうちに答えを告げた。


「ええと、二十一の階数は五一〇九〇九四二二〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇になります。十八の階数は六四〇二三七三七〇五七二八〇〇〇ですので、それを掛け合わせた数は……」


 暗算の方法は人によって様々だろうが、メアリの場合、特に脳内でいちいち演算をするようなことはない。数式を見る、あるいは聞くと、一瞬で光の集合のようなイメージがふっと頭に浮かぶ。そのイメージを語ろうとすると、自然と数字になって口から出てくる。メアリにとっての計算というのは常にそれで、ペンと紙を使うこともない。


 即答するメアリに、教授は僅かに満足げな笑みを浮かべた。まるで教え子に対するように、鷹揚に頷いて尋ねる。


「その通り、正解だ。君は、普通の人間がその答えを暗算では導き出せない事を知っているかね?」


「え、それはどういう……」


 教授の言葉に、メアリは驚いて目を瞬かせた。この程度の計算は、皆当たり前に簡単にできるのではないだろうか。その問いに、教授は静かに首を振る。


「大多数の人間は、一つの事例に対して一つの感覚でしか認識することができないし、また、二桁以上の乗算を思考のみで暗算することも、訓練せねばなかなか出来ない。君のように、何の訓練もせず、当たり前のように出来る者は滅多におらんよ」


「そう、なのですか?」


 あまりに驚き、メアリは少し、声が詰まる。


 大きな桁の計算は日常的に使われないだけで、皆、当たり前に出来るのだろうと、生まれてこの方、メアリはずっと思っていた。思うというより、信じ切っていたという方が正しいだろうか。


 けれど、思えば、買い物にしても、多くて一ギニーくらいの支払いしたことがなかったため、他者の計算を見ることも、そういえば全くない。

 自分の常識は他人の非常識というのはよく言われる言葉だが、まさかこういうことだとは……。


 愕然としているメアリへ、教授は小さく苦笑する。


「君の計算能力は特別なのだ。我々は、君のような人間を『計算手』と呼ぶ。思考のみで莫大な数を計算できる、選ばれた者のことだ」


 そう言うと、教授はゆっくりと『計算手』についての解説をしてくれた。

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