教授の家の書庫は想像よりも広かった。
白熱灯に照らされて、幾分か黴臭いようなその場所が真昼のように明るくなる。ずらっと並んだ本の背表紙を見て、メアリは小さく歓声を上げた。読書用のスペースだろうか、出窓の近くに、まるで応接室のようなソファーとテーブルが置かれている。
「すごいですね、これが全部、教授のものなんですか?」
本の数は数千冊はあるだろう。下手な貸本屋よりも数が多い。本棚に背の順に収められたその様は、図書館よりも整然としている。
メアリが読めない文字が記された背表紙を持つ本もかなり多い。アルファベット以外の文字が記された本もある。
「そうだね。英語以外で書かれているのは、大半が仏蘭西語や独逸語だ。数学関係の著作物は、希臘語や埃及語、そして亜細亜系も割合多い」
「教授やウィリアムさんは、これを全部読めるんですか?」
恐る恐る尋ねると、ウィリアムは静かに頷く。予想はしていたが、改めてメアリは感心してしまう。
この青年は数学教授の助手を務められる程に数学に堪能で、更には医療の心得まであるという。おまけに数カ国語も操れて、更には運動神経も凄まじく、腕っぷしも強いのだ。完璧すぎて驚くしかない。唯一の弱点と言えば、恐ろしく無感情で無表情な事くらいだが、そんなことは、さほど問題ではないだろう。
「ウィリアムさんは何でも出来るんですね」
心から感心して呟くと、ウィリアムが相変わらずの無感情な銀の声で返事をした。
「それはどうかな。僕は教わったことしか出来ない」
「そうなんですか?」
「そうだよ」
ウィリアムはやんわりと否定をするが、教わった占いだってろくすっぽ当てられないメアリにしてみれば、教わったことがきちんと出来るだけでも素晴らしい。きっと人知れず努力を重ねているのだろうに、それを誇る様子は何もない。それだけでも凄いと思う。
否定され、言葉の接ぎ穂を失ったメアリは、丁度目の高さにあった、赤い革張りの本を手に取る。レオンハルト・オイラーという著者名は解るのだが、肝心のタイトルが異国の言葉で書いてあるため良く読めない。ウィリアムが小さく言った。
「それはオイラーの天文学の書だよ。瑞西語だから、読むには少し難しいかも知れない」
「教授は天文学も修めていらっしゃるんですか?」
驚いて訊き返すメアリに、ウィリアムが頷く。
「オイラーは数学者だが、位相数学という概念を初めて作り出した人物だ。位相数学という考え方により、現代の天文学、力学、光学が生まれたようなものだから、数学者は天文学に明るい人物も多い。教授もかつて『小惑星の力学』という論文を発表していた」
数学は高度な四則演算をするもの、という認識しか無かったメアリには、ウィリアムの話がさっぱり分からない。メアリの疑問に答えるように、ウィリアムが数学について説明してくれる。
「数学というのは、数・量・空間などの性質や関係について研究する学問の事をいう。時代を経るにつれ、代数学・幾何学・解析学・微分学・積分学などが誕生して、それを元に物理学が生まれた。物理学というのは、物質の構造・性質を探究し、すべての自然現象を支配する普遍的な法則を研究する学問のことで、数学と密接な関係がある。かみ砕いて言えば、数学というのは森羅万象を方程式に分解する学問だ。計算だけではないんだ」
そう言うと、ウィリアムは高いところにある一冊の本を手に取った。かなり古い書物のようで、紙の端が焼けている。タイトルらしき位置に並ぶ記号は、確か希臘語のアルファベットだ。
「これは、エウクレディス……、ユークリッドといった方がわかりやすいかな、古代希臘の数学者の理論を記した本だ。タイトルは『原論』。史上最大の影響力を発揮した数学の教科書で、内容は、有名なユークリッドの五つの公理について書かれている」
有名な、と、ウィリアムは言うのだが、正直メアリには初耳だ。ウィリアムが説明してくれた所によると、ユークリッドの五つの公理というのはこういう物らしい。
一、任意の二点は一本の直線で結ぶことが出来、その直線はただ一本しか無い。
二、任意の線分はすべて、一本の完全な、無限に長い直線の一部である。
三、任意の点と、その点に発する線分があれば、その点を中心とし、線分を半径とする円が存在する。
四、すべての直角は互いに等しい。
五、任意の一本の線とその線上にない一点があれば、その点を通って、最初の線と決して交わらない線が一本だけ存在する。
幾何学のさわりだということだが、もうその辺りで降参だった。自分には父の言うところの数学の才能があるのだろうかと不安になるくらい、何が何だか解らない。余程不安な顔をしていたのだろう、ウィリアムがぽつんと言った。
「幾何学というのは、要は長さと面積と体積の研究だ。当初の幾何学は、円積問題や立方体倍積問題などを解くことが出来なかったが、ユークリッドの公理のおかげで色々解けるようになった、と、そういう認識程度で構わない。要は、数学はいろんな分野の元になっているという話だから。計算や数学を使わない分野は何もない。文学でさえも今や数学的思考で構成を組み立てる作家もいる程だ」
無感情な声には変わりないが、なんとなく執り成すふうな雰囲気がある。メアリをフォローしてくれているらしい。
「数学って凄いんですね。なんだか、世界すべてが数学で成り立ってるみたいです」
感心して呟くメアリに、ウィリアムがまったく淀みのない声で言う。
「それは強ち外れではないだろう。数学は神の言葉だから」
「神の言葉?」
銀の声で告げられた意外な単語に、メアリは思わず目を瞬かせた。ウィリアムから神の名が告げられたことに驚いたからである。教授やウィリアムは、なんとなく、神様とは無縁な気がしていたからだ。無神論者というわけではなく、なんだか二人とも、神様がいない世界でも平然としていられそうな気配がある。
「数学は、神の御技とされていた様々な現象を数字で証明する学問だ。今や自然現象の大半は数式で説明できる。引力の法則とか、熱量の法則などがそうだろう。詩的に言えば、数学者や物理学者は本来ならば神の力であったそれを、数式という呪文によって分解し、人が掴めるものとした。数学は、神の言葉を聞き取る学問だと、ジズ先生はいつもそう言っていた」
にべもないほど、あっさりとした言い方だった。突然出てきた父の名前に、メアリは思わず訊いてしまう。
「お父様は、数学を神の言葉だと言っていたんですか?」
メアリは父の職業も知らなかった。だから、父の思想やどんな哲学があったのかも良くは知らない。だから、父を知る人から父の話を聞きたいと強く思う。
「ああ。先生は数学者と計算手、そしてそれを実行する者を基督教で言うところの三位一体と同じだと言っていた。神を切り刻んで分解するのが数式ならば、それを神の力へと還元するのは計算の力だと。つまりは机上の理論を現実に引き出すための力が計算であり、それを実行して初めて理論は人が手にすることが出来る現実の力になるという考えらしい」
「計算が、ただの数式を神の力へ還元する……ということですか?」
メアリの問いに、ウィリアムはひとつ頷いた。
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