Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

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公開日時: 2020年9月14日(月) 18:38
更新日時: 2021年3月19日(金) 06:14
文字数:3,155

「その方の結婚式に立ち会ったのは、私ともう一人の男性、そして牧師様だけだった。神の名の下に結婚は成立し、立会人は、この秘密を生涯誰にも話さないと誓わされたの。それはそれで構わなかったわ。私はあの方が好きだったし、あの方の為ならばそれくらいのことは耐えられた。その秘密は露見することなく、やがて彼女の二番目の夫は丹毒が元で亡くなり、そうして、総ては何事もなく、元のままに戻ったのだから」


「亡くなった、のですか?」


 妙に引っかかる言い方に、首を傾げてメアリが訊いた。婦人は二、三度首を振り、躊躇うように補足する。


「亡くなったのよ、多分。殺された風には思えなかった」


 そう言うと、婦人は躊躇うように言葉を切った。何か言いかけては黙る、という事を数度繰り返した後で、おもむろに口を開く。


「秘密結婚から二年後。あの方は、彼の子供を妊娠した。四十五歳という高齢でまさか子供が産めるとは思わなかったし、そもそも世間の目に隠れて出産が出来るわけもない。けれど、彼女は無事に子供を出産した。私はその頃、自分の出産でお暇をいただいていたのだけれど、密かに呼び寄せられた。その子供の乳母として雇われるためにね」


 若き寡婦が男を引きずり込んで妊娠してしまうのは、割合良くある話である。しかし、四十五歳という高齢でそれを行い、あまつ子供を産み落とすというのは殆ど訊いたことがない。大体、妊娠がばれなかったのか。


 その事を問うと、女性は案外あっさり答えを出した。


「あの方は、肥満に悩んでいらしたから、外見からでは解らなかったわ。最初のご主人が亡くなってからは、常に喪服を来ていたし」


 確かに喪服という物は、体のラインを隠してくれる。現にメアリも、仕事の時は貧弱な体を隠すために喪服を着ているのだ。内心で深く納得するメアリに、婦人は続けた。


「その子供の存在は、当たり前だけれど公表できるものではなかった。その子は極秘裏に育てられた筈だけれど、遺伝性の血友病を患い、幼くして亡くなったと聞いていたわ。それからますます彼女は孤独になって、使用人にしか心を許さなくなっていた。彼女は最初のご主人とのあいだに九人の子を儲けていたし、孫もたくさんいらっしゃったけれど、誰も彼女を顧みなかった。長男との間は尤も険悪で、血を分けた親子だというのに、互いに憎しみあっているようだった。憎しみのおかげで、あの人は生きながらえていたようなものかも知れないわ。決して長男の家族に跡を継がせない、そのためだけに生きていると、そう漏らしたこともある」


 メアリは婦人の言葉に違和感を持った。息子に跡を継がせない、とはどういうことなのだろう。そもそもこの国では、女性は遺産を相続できない。跡継ぎの居ない寡婦などが、法律の隙間を塗って女主人になれる場合もあるが、『あの御方』とやらの場合は、九人も子供がいるのだ。どう足掻いても無理だろう。


 しかし、一方で、目の前の婦人が嘘を言っている訳ではない、というのもわかる。声にブレがないからだ。


 メアリは他人の嘘がわかってしまう。別に心が読めるとか、そういうことでは特にない。メアリは何故だか知らないが、音を色の付いた数字として感じてしまうのだ。感じてしまうというよりも、音が数字として『見える』、という方が正しいのかも知れない。その数字に大きな変動がなければ、それは彼女が動揺していないという証拠である。人は嘘をつくときは、無意識に声を張る。耳ではまったく変わらない声であるのに、しかし、見える数字は変わるのだ。


 例えば、この女性の声は常に橙色の三、三七七六という数字と共にある。けれど、隠し事をしたいとき等は、それが三、九五三七という数値に一気に変わった。


 大きく数が増えるのは、大体が嘘を言っている時だ。人は嘘を吐くときに声を張る。そうなると、こんな風に数値が増える。


 このように、メアリは音に付随する数字を読み取って、人が嘘を言っているのか、それとも真実を言っているのかを判断することが出来るのだ。


 他人がどういう世界に生きているかはわからないが、しかし、メアリの生きる世界は割合に忙しい。大きい音や、意識的に聞こうとする音すべてが、光で書かれた数字として見えてしまうからである。その光は黄色であったり白であったりと様々だ。それはどうやら、その音の根元に原因があるらしい。魂の色なのかもしれないが、それが何かはメアリにはよくわからない。


 世界は色付く数字を纏った音で満ちていて、メアリは常にその中で生きている。それが当たり前だったのに、他者はそうではないと知った時は驚いた。


 他人と違うことを悩む時間はまずなかった。悩むよりも、生きることで精一杯だったからである。生きるためには、他者の嘘や感情をある程度見分けられるこの能力はありがたかった。上機嫌か不機嫌か、嘘か真実か、それを知ることが出来るだけで、生存率はだいぶ上がる。


 そういうわけで、メアリは婦人の言葉に嘘は無いというのが信じられた。そのまま時折相槌を打ち、彼女の話を静かに聞く。


「私はその秘密を墓場まで持っていく、そのつもりだった。彼女の二番目の夫も亡くなり、彼との子供も、とうの昔に死んでいる。だから私はある意味で安心しきっていたのだけれど……。それは違った」


 婦人の声に付随する数字の色が、不意に暗く変化する。これは彼女が怯えているという兆候だった。経験上、数字の色は、感情に左右されて明暗を変えるものである。つまりこれは、自分の聞いたものが信じられないけれど、それが紛れもない真実なのだと自覚しているときの声なのだ。


「違った、というのはどういうことなのですか?」


 メアリは出来るだけ優しい声で、彼女を落ち着かせるために訊く。数字として音がわかるメアリは、意図的に、自分の声を操れるのだ。その効果は覿面で、婦人は少し落ち着いたようだった。声を潜めて、しかし、はっきりと断言する。


「一週間前のこと。私は少し所用があって、あの方の住む城まで出かけたの。用事自体はすぐ済んだわ。そうして帰り際、私は一人の青年とあの方の部屋の前ですれ違った。私はその瞬間、背筋に冷たいものが走ったわ。何故なら彼は、あの方とジョンの間に生まれたあの子供に違いなかったから」


 婦人は怯えるあまり、ジョンという名前を出した事に気付いては居ないようだった。それを今、指摘するのも不味いと思い、メアリはその事には一切触れず、黙って彼女の話を聞くのに徹する。


「そのときの私の驚きがわかって? 私の出産時期とあの方の出産時期は重なっていたから、乳母としてその子に乳を含ませたことも何度もある。見間違えるはずはない。けれどその青年は、間違いなくあの時の子だったわ。血友病の子供は十七歳まで生きるのも稀であるのに、あの子は死んではいなかったの。あの方は、私さえも欺いて、その子を育てていたに違いないわ……」


 婦人はそう言うと、声を詰まらせるようにした。許されざる結婚と出産の秘密からは、その夫と子供の死によって解放されたはずだった。しかし、その忘れ形見が生きていたとなれば話は別だ。忘れていた過去が地獄の底から蘇ってきた。だから、彼女は眠れなくなったのだろう。


「彼は本当に『そう』なのかしら。そうだとしたら、私はあの御方に、それを見たと伝えなくてはならないの? 庶子であるのは確かだけれど、彼の存在はあの家そのものの権威を揺るがしかねない。私は如何したら良いか、それを貴女に占って欲しいの――」


 少し早口になって尋ねる彼女は、本当に切実そうで必死だった。こういう場合の回答は大体が一つしかない。メアリは習った通りの順番でタロットカードを捲っては、決められた位置へと置いていく。そうして最後に石を一つ置くと、落ち着き払った声で言った。


「結果が出ました」

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