Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

31

公開日時: 2020年10月7日(水) 18:00
文字数:3,115

 メアリは大きく息を吸って、視界に瞬くすべての数字を凝視した。ウィリアムの伝えてくれた式に、これらの数字を代入せねばならないからだ。


 メアリの計算は、四則演算を思考で暗算するのではない。ひらめきに似た、イメージの奔流が、頭の中で勝手に行ってくれるものなのだ。普段の計算なら、意識せずとも勝手に答えが出てくるが、しかし、今回はそれ以上、限界まで『本気』で計算する必要があった。


 『本気』を出すため、メアリはゆっくりと、心の中である言葉を思い浮かべる。本当に集中が必要な時の、メアリだけのおまじないだ。



――あの日、私は、棺桶の中で目覚めた。



 そう呟くと、葬礼の鐘の音が頭の奥に大きく響いた。


 それは、メアリの中では、ある意味で最大の目覚めの記憶であるが故に、覚醒の合図でもある。


 十二年前の列車事故の後、仮死状態だったメアリは、生きたまま、父親と同じ墓穴に葬られた。実際、体中傷だらけで意識は混濁していたし、呼吸も殆どしていなかったそうだから無理もない。


 目覚めたときは真っ暗だった。何も見えず、自分が狭い場所に横たわっていることしかわからなかった。噎せ返るような薔薇の匂いだけが、ただ、そこにあった。


 あの棺桶で目覚めた瞬間の事を思い出す度に、心臓の辺りがきゅっと凍えたように痛みを帯びて、まるで縮こまるような錯覚が起きる。あるはずのない、想像の中だけの『痛み』。しかし、確かに知覚する『痛み』。


 暗闇の恐怖が凝り固まったようなそれが、メアリにとっての『スイッチ』だった。


 目の前をちかっと走る光が見えた。それと同時に、メアリの中に、一つの風景が浮かび上がる。


 煙がかった太陽と、光のような闇、真っ赤な空へと落ちる稲妻、何処までも白い、嵐の大海。影が渡る真珠色の蜃気楼、水に朽ちる、不思議な神殿――。


 見覚えはあるが、何処にもないその光景が脳裏に甦ると同時に、頭の中で、何かの回路が開くような感覚が閃いた。縒り合わされた二つの何かがすっと解ける感覚。


 ――意識の底で紅く蠢く肉の塊に、銀のナイフの刃が当たる。抵抗もなく、すっと潜り込んだその刃の間から、どろっとした血が滴り落ちた。とぷとぷと音を立てて床へと滴る。そうしてそこから、何か読めない異国の文字が血を纏って宙へ這う……。


 そのイメージが鍵である。その刹那、普段の計算とは桁違いに異なる、膨大な光のイメージが『見え』た。刻一刻と姿を変えるそれを出力するのに、いちいち数字を喋っていては時間が足りない。


 気がつけば、メアリの喉から、歌のような奇妙な旋律が滑り出していた。詞のない歌だ。メアリは、無意識のうちに、数字という『点』でしかないものの繋がりを、音という振動を使って『空間』へ出力させる方法を選んでいる。故に、自分が歌っているという感覚が全くない。無我夢中で、答えをウィリアムに届けることだけに集中する。胸の辺りが燃えるように熱かったが、それを気にする暇も無かった。


 絡み合う数字は正確無比な音階となり、空気を震わす。


 メアリには、これをウィリアムが理解できるだろうか、という不安さえも頭になかった。ウィリアムは必ずこれを理解すると、今のメアリは『知って』いる。だから、ただ、ひたすらに、計算の『解』を外部に出力する事しか、今のメアリには考えられない。


 そして、驚くべき事に、確かにその『解』をウィリアムは理解しているようだった。口の中で、小さく呟く。


「君の歌は、必ず僕に届く。だから、大丈夫だ」


 軽く息を吸い込むと、歌に合わせるようにウィリアムは無造作に巨大な銃を構える。


 集中するように目を閉じ、低く言った。


「……なべてはその生まれ来たる元素へと還っていく。肉体は土に、血は水に、熱は火に、息は風へと――」


 それは明らかに詩だった。ウィリアムは、メアリの『歌』を従えて、呪文の詠唱のようにそれを呟く。ゆっくりと開かれたウィリアムの目には、先ほどまでの茫とした色とは全く違う、炯とした蒼い光が灯っていた。


 虹色をした真珠へと蒼い光が射したような煌めきは、まるで彼の魂を灼いているかのような色をしている。先ほどとは、顔つきまで違うようだ。


 そのまま、息を吐き出すような声で続けた。


「それらはゆうに生まれ、ゆうに葬られる――」


 メアリの『歌』へと滲むような言葉と共に、最初の引き金が、ことん、と落ちた。


 音を食い尽くす落雷のような咆哮と同時に、その銃口からは紅い炎の尾を引いた銀の弾丸が解き放たれる。その弾丸に、あの紫電の光をメアリは感じるが、しかし目を開けることは出来なかった。計算をすることだけで精一杯であるからだ。


 一方でウィリアムは、言葉の無い歌へ滲ませるように、無表情に詩を続けた。


「汝ら水蒸気よ、沸騰せよ」


 最初の銃声が消えるより迅く撃鉄を上げて、二発目を撃つ。


「汝、火の海よ、踊り唸れ」


 何も狙ってはいないような、まるで各々でたらめのような方向に、立て続けに三発を撃った。


「我が魂は、汝等を受け入れんとするが為に、あらたおこる――」


 最後の一発を天井に向かって撃ったのは、メアリの歌が終わるのとほぼ同時だ。最後の弾丸を放った瞬間、ゴキン、という、何かが砕けるような音がその右肩からしたが、ウィリアムの表情に変化はない。


 天井に着弾する音が響くのと、各所に撃った弾丸が着弾するタイミングは、完全に一致していた。まるででたらめに撃たれているようなのに、総ての弾が露出する気送管のパイプに、一秒のずれもなく、一気呵成に着弾する。弾丸がパイプに着弾した瞬間、あの稲妻に良く似た光を纏う音が、その表面に鋭く走った。


 瞬間、一斉に轟音が響いた。まるで、大聖堂の鐘の音のような音だ。


 ある音は地を這う悪鬼の唸り声のように低く、そしてある音は天使の喇叭ラッパのように甲高く。音程も高さもばらばらな五つの音が、反射して中央に集まると同時に、天井から降りてくる音に押されるように、燃え盛るホールへと降り注ぐ。


 ビリビリと空気が震えた。


 教会の鐘の音の真下に居るよりも尚凄まじい音と振動が、部屋の隅にある階段の踊り場にまで伝わってくる。全身の血がかき混ぜられるような、くすぐったいような、ぞくっとする気配に、計算に捕らわれていたメアリは、はっと我に返った。慌てて音の中心へと目を向ける。


 そこには、奇跡が一つ顕現していた。


 四方八方から様々な色の付いた数字が絡み合い、そうして浸食し、相殺し、共鳴し、一つの巨大な音を形作っていく。


 それは、黒い数字だった。教授の闇色の声よりももっと暗い、漆黒の音が巨大な、零、という、ただそれだけの数字に変化する。


 躰の芯を揺さぶるように、長く続く低い音。それは炎から発する音を食い尽くす無数の蛇だ。


 それに煽られるように、炎は大きく揺らめいていたが、ある瞬間を境に、唐突に、手品のように、ふっと一瞬で掻き消えた。


 水を掛けた時のように徐々に鎮火したのではない。本当に一瞬で消滅したのだ。


 メアリの目には、零を纏った数字が巨大な漆黒の蛇となり、炎をひと吞みにしてしまったように見えた。神聖でもあり、また、恐怖を感じるような光景だ。それは原初の恐怖のようにも思える。


「消えた……」


 メアリが、茫然として呟いた。正しく計算通りの光景だ。つまりはウィリアムが、メアリの伝えた通りの角度とタイミングで完璧に射撃を行う事が出来たと言うことでもある。理論は実践されなければ存在しないと同じだ。計算と実行は二つで一つだと、改めてそう思う。


「ウィリアムさん、火が消えました!」


 興奮気味に告げた後、メアリは、右肩を押さえているウィリアムに気付き愕然とする。普段全く表情を変えない彼が、歯を食い縛るようにして痛みに耐えているその姿に、火を消せた喜びが一気に吹っ飛ぶ。

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