三
屋敷の前で、メアリとウィリアムは二輪立ての辻馬車を二人で降りた。
完全に日が沈み、まだ五時半だというのに、辺りはかなり暗くなっている。ガス燈の真下でハンサム・キャブが去って行くのを眺めるメアリにウィリアムが平坦に言った。
「夕食までは少し時間がある。今日は全く災難だった。暫く部屋で休んでいるといい」
全く無傷のメアリに比べ、ウィリアムは多少煤けているようだ。帽子を無くして髪は乱れているし、ディットーズも火事のせいで焦げ臭い。本来はメアリもこうなっていてもおかしくないが、ウィリアムが完全に守ってくれたおかげで、焦げは勿論、かすり傷一つ無かった。
「ありがとうございます。でも、ウィリアムさんの方が疲れていらっしゃるのでは?」
心配げに尋ねるメアリに、ウィリアムが静かに首を振る。
「僕なら大丈夫。疲れてもいないし、肩の方も、もう平気だ」
その言葉には、一切嘘は無いようだ。ウィリアムの方が休息を必要としているはずなのに、しかし、彼の様子は全く変わらない。トランクの中でビリーが言った。
〈こいつは無駄にタフで頑丈だからナァ。嬢ちゃんが思うより、よっぽど丈夫だから安心しな〉
嬢ちゃんの方が計算やら何やらで、よっぽど大変だったろう、と、ビリーはメアリを労った。口の悪いこの銃に労われると、なんだか不思議に安堵する。
二人で玄関の中に入ると、ウィリアムが静かに言った。
「では、僕は教授に今日のことを伝えてくる。夕食の時間にまた会おう」
ウィリアムの言葉に、メアリは静かに頷いた。
「はい、またあとで」
疲れ切っていたが、しかし、精一杯の笑顔を浮かべる。ほんの僅かにウィリアムが眩しそうな目をしたが、結局何も言わなかった。そのまま黙って移動をはじめる。
ゆっくりと居間の方へ歩いて行くウィリアムの背中を見送って、メアリは玄関ホールで大きく深呼吸をした。胸の中にあの甘酸っぱい林檎の香りが満ちるのを感じ、メアリはやっと一息つけたとそう思う。
夕食は夜の七時だと言っていた。それまでの空腹を凌ぐため、メアリは玄関の箱の中から、少し皺が寄って、ほどよく熟した林檎を取り出す。青い林檎は見かけよりもずしりとしていて、手に心地好い重みを与える。
その林檎を抱えるように、メアリは自室への階段をゆっくり上った。
ウィリアムが居間の方へと向かう最中、トランクの中で、ふっと、ビリーが小さく言った。
〈今日は久々に疲れたナァ。ウィル、お前が俺を使ったのなんて、初顔合わせの時以来じゃねぇのか?〉
「そうだな。試射の時以来、初めて使った。あの時の五倍くらいの衝撃だった」
ビリーの問いに、真っ直ぐ前を見たままでウィリアムが無表情に答える。それを聞いたビリーが溜息交じりに更に言う。
〈試射の時は普通の火薬だったからなァ。しかし、火薬が『黒化』でまだ良かったな。『赤化』だったら、下手すりゃ肩が粉々だったかもしれねぇぞ〉
脅すように言うビリーに、ウィリアムは特に無感情に答える。
「僕の肩が砕けるくらいなら、お前だってただでは済んでいないだろう。尤も、そうなれば、だいぶ静かになって良いと思う」
〈お前、嬢ちゃんの時と全く態度が違うじゃねぇか! ほんとに可愛げってもんがねえな!!〉
「僕に可愛げがあったら、それは気味が悪いだけだと思うが」
〈そういう意味じゃねぇよ! この四角四面の唐変木が!〉
飽くまでも淡々とした返事に、ビリーが機嫌を損ねた風に悪態をつくが、しかし、ウィリアムは返事をしない。諦めたようにビリーは黙るが、しかし、やがて、何かを危惧するように呟いた。
〈嬢ちゃんと言えばさ、ありゃあ変わった娘ッ子だなァ。素直で良い子なんだけどさ、でもよ、なんだか、少ゥし歪んでる……のかね?〉
その言葉に、ウィリアムは何も答えない。しかし、黙れ、とも言わず、ビリーの喋りを聞いていた。ビリーは更に言葉を続ける。
〈死について、なんていうか、妙に諦観してねぇか? お前でさえ、大いに凹んじまうような事件の後なのに、取り乱しもせずに、あんな綺麗事をサラッといえるもんかねぇ? あのお嬢ちゃんが格段にクールだ、っていうならわかるんだけどよ、なァンか違うんだよなァ。普通、轢死体だの焼死体だのを見た直後にあんなことが言えるかね? さりとて偽善者っていうわけでもねぇ。あれは、あの子が本心から思っていることだ。多分割り切りが凄まじいんだろうが、しかしなぁ……〉
確かに屋根の上での、メアリの様子は少し異常だ。落ち着きすぎている。
目の前で人が死ぬ、というのはなかなかに度し難い衝撃があるものだ。歴戦の軍人とて、部下の死の直後は口もきけなくなるらしい。ウィリアムでさえ、人の死に動じてしまい、メアリの前であるのに弱音を吐くような有様だ。
それなのに、十七才のあの少女は、特に動じた様子もなく、更には悟ったようなことまで口にした。彼女が苦労人であり、些か老成ているのを差し引いても、死者を目の当たりにした直後、あんなことが言えるものだろうか。
首があったら傾げているだろう物言いで呟くビリーに、ウィリアムが言う。
「……彼女は、たった五歳で両親と死に別れている。そんな子が、死について諦観するのは仕方がない」
〈まぁ、そりゃあそうだろうさ。だけどなぁ、それだけじゃねェんだよナァ……。なんかうまくわからんけれども、あの嬢ちゃん、何かが徹底的にズレてんだよな。普通の十七才の娘っ子以外にもう一人、別の何かが同居してるみたいな、そういう感じっていうか……。なんかな、あの娘自体が二つに分かれているような、そんながするんだよ〉
「・・・・・・」
ビリーの言葉に、ウィリアムはもう何も答えなかった。
その目の蒼が奇妙に沈んでいることが、既に答えだとしても、言葉には決して出さぬと誓うように。
居間の扉を開け、ウィリアムはそのまま台所へと直行する。食品棚から黒い瓶を二本持ち出した後、帳簿に何かを書き加えると、そのまま静かに自室へ向かった。
〈なんだ、またアレを飲みだしたのか。止めたんじゃなかったのか?〉
からかうようなビリーの声に、ウィリアムが無感情に答える。
「これが一番効率が良いからな。普通の食事だけでは、今日のようなことがあった場合、どうしたって体が保たない」
〈そりゃそうだ〉
妙に納得するようなビリーの声を聞き流し、ウィリアムはそのまま階段を無造作に上がる。メアリとは丁度正反対の――二階の北側の部屋のドアを静かに開けた。
部屋の中は、片付いているというよりも、私物自体が殆ど無かった。閑散としているような雰囲気だ。据え付けらしいクローゼットとコート掛け、そして質素な長椅子と、本が数冊置かれたテーブル以外は、ベッドさえもない。ウィリアムは明かりも付けず、帽子と上着を脱いでハンガーに掛ける。カーテンを開けると、コの字になった建物の向かい側に、丁度メアリの部屋が見えた。
ビリーが揶揄するように言う。
〈全くヨゥ、あの嬢ちゃんも驚くだろうな。お前が二十四時間、ずーっと護衛のために、あの子を常に見張る手筈になってるなんて〉
メアリの部屋から目を離さずにウィリアムが言う。
「彼女には、自分にはプライバシーがきちんとあると、せめて思っていて欲しい。自分を守るためとはいえ、四六時中誰かに監視されている、というのは、精神衛生上良くはないだろう」
〈まぁ、そりゃな。知らないことはこの世に『無い』のと同じだしなァ〉
ビリーの言葉に、ウィリアムが小さく呟く。
「ああ。彼女は何も知らなくていい。自分の両親の事や、十二年前の列車事故の真相も、あちら側の事だって、何一つ知らないままでいい。……勿論、僕の事だって思い出す必要は何もないんだ」
それを聞いたビリーが、呆れたように言った。
〈お前さぁ、履歴書によ、『趣味・自己犠牲』って書いてんじゃねぇの? 初めて会ったときから知ってるけど、イカれてるぞ、その思考〉
ウィリアムは、ビリーの言葉に何も答えなかった。ただ、先ほど台所から持ってきた黒いボトルを一本だけ取り上げる。それを下げて、黙って静かに窓へと向かった。
窓枠に腰掛けると、ウィリアムはコルク栓を抜く。そのまま、瓶の中身を一気に煽った。殆ど何も息継ぎをせず、あっという間に一パイント半はある、その液体を一気に飲み干す。
瓶のラベルには、『クウォート社・徳用食用油』と書かれていた。
それを飲み干したウィリアムの表情は、普段とさほど変わらないが、流石に不快な色が滲むようだ。
トランクの中で揶揄するようにビリーが言った。
〈そんなもん、美味いのか?〉
「美味い訳がない。僕にも味覚はあるのだから」
メアリの部屋から目を離さずに、相変わらずの声で言うウィリアムに、ビリーは低く笑ったようだ。
〈そりゃあそうだ。俺だったら、カロリーを短期間に摂取したい場合、ウォッカにビタミン剤でもぶち込むがね。酒じゃ無く、あえて油って所が、お前らしいや〉
嘲笑混じりのその声に、ウィリアムは何も答えなかった。ただ、メアリの部屋に異変が無いかをじっと見守る。
その横顔は、相変わらずの無表情だったが、その目の蒼は、何処か遠くを見るようだった。
次話が短めなので、本日はまとめて二話更新となります。
よろしければ続きも楽しんでいただけたら幸いです。
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