二
六時の鐘が鳴った辺りか。
ミューディーズ本店の前は、野次馬でごった返していた。店の中に突っ込んだ乗合馬車は既に除けられ、大きく空いた玄関からは、内部の惨状がはっきり見えた。
血に塗れた玄関からは、幾つもの担架に乗せられた『人間の残骸』が運び出されている。運良く生きのこった者達も、医者や看護婦の手によって治療を施されて居る間中、ずっと苦痛の叫びを上げていた。
それらの苦痛の声に呼ばれるように、医者の手によってダフィーズ・エリクシルのラベルの付いた木箱が幾つかミューディーズの中に運び込まれる。途端に、万能薬ともいえるこの阿片製剤を求める声があちこちから聞こえてくるのが路上にも伝わった。
ヴィクトリア朝ほど『痛み』を憎んだ時代もなかったのではないか、と言うくらい、人々は痛みに対して耐性がなかった。些細な頭痛や歯痛でさえも、平気で阿片チンキを痛み止めに用いている。
阿片チンキというのは、阿片をアルコールに溶かし、サフランやクローブで香り付けをしたものに樟脳液を処方したものである。主に痛み止めや睡眠剤として使われた。阿片の中毒性や過剰摂取による危険を説くものも居たのだが、鎮痛剤も抗生物質もない時代、阿片チンキは文字通り万能薬であり、また、これらの阿片製剤は、薬局や食料雑貨店で、二、三十滴を僅か一ペニー程度で買い求めることができたため、十九世紀の間中、それが庶民の手から失われる事はなかったのである。
ゴドフリーズ・コーディアルやダフィーズ・エリクシルは、薬局で買える阿片製剤の代表格だ。今、店の中に運び込まれたものも、近くの薬局で購入されたものだろう。
この世の地獄にも似た場面を眺めながら、倫敦雀達は口々に勝手な推論だの噂話に花を咲かせていた。
「ミューディーズで、爆発だって?」
「なんでも地下書庫に三十六樽もの爆弾が仕掛けられていたそうで、ヤードの連中はテロルじゃないかって言ってたぜ」
「三十六樽? ガイ・フォークスでも気取ってたのかね、犯人は」
「しかし、なんで貸本屋が狙われるんだろう。同業者の嫌がらせじゃないのか?」
「いやいや、強盗かも知れないって話だぜ? 二階にいた従業員が皆殺しにされてたって、さっきヤードの警官達が話してた」
無責任な噂話は尾ひれをつけてどんどん広がる。新聞記者が写真を撮るためにマグネシウムを炊き、それで内部が照らされる度に、野次馬達の間からどよめきが上がった。
「ひどいもんだな、血の海じゃないか」
「火事はすぐ収まったらしいけど、これじゃあ、中の本も使い物にならないだろう。大損だ」
「ミューディーズの明日の株価がどうなってるか見物だな。最近はW・H・スミスの鉄道文庫やペルメル社に押され気味だったし、どう巻き返しをはかるつもりなんだろう」
好奇心と僅かな同情の混じった声がさざめく、そんな喧噪のミューディーズから一ブロックほど離れた路上に、一台の箱形四輪馬車が停まっていた。
ブルームの中には、二人の男が座っている。各々の座席の隣には、大きな旅行鞄が置かれていた。
一人は、灰金の髪と翠の目を持つ理知的な顔の青年だ。表情にはどことなく高貴さがある。年齢は、三十代半ばくらいか。穏やかな顔つきだが、そのせいで表情が特に読めない。
もう一人は、オペラグラスで熱心にミューディーズを眺める、濃い色の保護眼鏡をかけた、身なりの良いの紳士だった。一週間前、リバプールでごろつきに囲まれた年齢不詳のあの男だ。
保護眼鏡の男が、楽しそうに呟く。
「君のご母堂はホントにやることが派手だねぇ、ローレンス君。お気に入りの部下に噛み付く老人を殺すのに、ミューディーズごと吹き飛ばそうとするもんかね、普通。まぁ、巻きこまれて死んじゃった人たちには気の毒だけど、おかげで凄いものが見られたから、私的には満足だけど」
陽気を通り越して躁の域まで達しそうな上機嫌さだ。ローレンスと呼ばれた青年は、少しばかり寂しそうに微笑んだ。
「あのひとは、我がままで短気で、理屈は通らない人だからね。お気に入りのソールズベリー侯爵について、グラッドストン卿に意見されたのを未だに根に持っている。父のことを忘れてはいないのだろうが、新しい依存できる対象が出来ると、途端にそちらに夢中になる気まぐれさにも困ったものだよ、ジャン・ジャック殿」
ほんのりと棘のある言葉に、ジャン・ジャックと呼ばれた紳士が苦笑した。
「まぁね、キミのご母堂の新しい情夫としては耳が痛いよ。でもまぁ、キミはご母堂が嫌いなんだろう? だから、私の誘いに乗ってくれた。私もね、キミのご母堂のような婆ァは大嫌いだし、利害が一致するなら手を組むに越したこともないだろうさ」
オペラグラスを除いたまま、ジャン・ジャックはあくまで陽気だ。
「まったく、愛する男の子供が欲しいのはまぁ解らんでもないけどね。でも、高齢出産を強行したせいで、キミの病は一族の中でも尤も酷い。普通は身体が完成する頃になれば、出血しにくくなるものなのに、三十才を過ぎても症状が快方に向かわないというのは珍しいね。キミの母上の主治医が《千夜鶏鳴結社》関係者であるせいで、私達の仲間になっちゃったり、ほんと要らん物を背負いすぎだよ。まぁ、子供は生まれてくる場所も、親だって選べないもんだけどさ」
そんなキミが気の毒だから、手を貸してあげるんだよと、些か癇に触るような物言いをするジャン・ジャックに、ローレンスは唇の端を笑みのように少し歪めた。
「私が気の毒というのなら、貴公だって気の毒ではないのかね?」
「そうさ。気の毒な子供同士、手を組むのは面白いだろ? 少なくとも、傷を舐め合うよりは健全だ。キミは多分、限りなく第五世代に近い第四世代で、私は第三世代のど真ん中だからね。二人で力を合わせたら、第七世代の『命の冠の乙女』にしか出来ないはずの、あちら側の扉を開けられるだろうさ。そうなったら面白いね」
ケラケラと笑うジャン・ジャックは、ふと真顔になって言った。
「しかし、あの娘……。てっきり死んだはずだと思っていたんだけれどね。まさか、生きていたなんて思わなかった」
「……やはり、火を消したあの少女と青年は、命の冠の乙女とその騎士なのかい?」
落ち着いたローレンスの言葉に、ジャン・ジャックが大きく頷く。
「間違いないね。あんな芸当が出来るのは、多分、《少数派》の連中でもなかったら、失われた例の書と、その器である命の冠の少女くらいなもんだよ。エルドレッドを連れてくれば良かったけど、彼ねぇ、少し拗ねているから」
「エルドレッドは私達より余程『人がましい』のだよ。拗ねると言うより、貴公が彼の意に染まぬ事ばかりさせるから、色々あれも苦悩するのだ」
柔らかく告げられた言葉に、ジャン・ジャックが陽気なままに真顔で言った。
「いやいやいや、エルドレッドには免罪符があるんだから、拗ねることも無いと思うけどね? 罰を受けることがないのに、罪を躊躇うってのはさ、人がましいにも程があるよ。そんな子に育てた覚えはないんだけどねぇ」
「子は親の思う通りには育たないさ。それは貴君や私を見ていれば解るだろう。あまり彼を苛めるものではないよ、ジャン・ジャック殿」
「キミはどうにもエルドレッドに甘いねぇ……。あれはね、屈折してた方が面白いんだよ」
少しばかり呆れたようなジャン・ジャックに、ローレンスは少しだけ笑ってみせる。
「私と彼は似たもの同士だからね。我から屈折したのではなく、他者によって屈折させられたという点で」
「言うねぇ、キミも。まぁ、エルドレッドの場合は、お兄さんの方が選ばれたっていう劣等感もあるからね。劣等感と屈折はよく馴染むんだよ」
「兄……」
その言葉に、ローレンスがほんの僅かに目を陰らせる。それに頓着せず、ジャン・ジャックは更に続けた。
「まぁ、お兄さんの方はエルドレッドもいるからあんまり必要ないけれど、でも、あの子は欲しいなぁ。あの婆さんに、ちょいとねだってみようかな。ううん、だけど、若い女の子が欲しいとか言ったら誤解されちゃうから、結局は自力で勧誘した方が手っ取り早いか」
その言葉に、ローレンスがほんの少し驚いたように言う。
「まさか、あの娘も仲間に引き入れるつもりなのかね?」
意外そうな響きを含んだその問いに、ジャン・ジャックが楽しそうに答える。
「うん。出来れば仲間になってくれれば嬉しいね。まぁ、あの子は《千夜鶏鳴結社》の最高傑作だし、無理矢理にでも手に入れるつもりではあるけれど、自発的に仲間になるのと、脅して『協力』させるのでは、モチベーションが雲泥の差だしさ。私達二人が命を燃やして出来るかどうかって事柄を、彼女は鼻歌交じりにこなしてしまうからねぇ……。ここの造りが大分違うんだよ」
頭を指して言いながら、ジャン・ジャックは大袈裟に肩を竦めたが、ローレンスは何も言わない。昏い目のまま、燻るミューディーズの建物を静かに見つめる。
「さて、そろそろ出してくれ。今晩中にあと一人、どうしてもご挨拶をしておきたい人が居るからね」
オペラグラスを外したジャン・ジャックが小窓に向かって馭者に命じると、馬に鞭をくれる音がして、馬車は静かに動き出す。
ローレンスは黙ったままだ。ただ、ジャン・ジャックだけが、何処までも陽気ではしゃぐようである。
「泥臭くて蒸気臭い川の向こうの倫敦塔から、早く総ての烏を追い払ってしまいたいね! そうしたら、此の世は大分静かになるよ!」
陽気なその声に、答えるものは誰も居なかった。アスファルトを行く車輪の音だけが、まるでそれに応えるように、ガタガタッと大きく揺れる。
調子外れのシューラールンが、馬車の中から大きく聞こえた。
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