Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

25

公開日時: 2020年10月1日(木) 18:00
文字数:2,654

 メアリの視線に気付いた老紳士はそう言うと、隣にいる東洋人を静かに見た。話題を振られた東洋人は、やや仏蘭西フランス訛りの英語で低く言う。


「そうだな。開国から二十余年、我が国の本来の文化だとか風習は時代遅れだと言うことで、すっかり西洋のものに取って代わられつつある。しかし、それらの葬儀は既に済ませた。売国奴の手ではなく、自らの手で幕引きが出来ただけ、まだ幾分かはましであろうよ」


 アイリス色の声は、酷く落ち着いていて、何もかもを受け入れているようだ。メアリは日本のことは殆ど解らないが、近年革命が起こって君主が変わったと言うことは知っている。この人が売国奴と言うものが、きっと政府を倒した革命軍のことなのだろう。革命は綺麗事ではないというのは、仏蘭西を見ても解る。きっと英国人には解らない何かがあるのだ。そんな国が行った、文化の弔いとは一体どのようなものなのだろう。


「文化の葬儀を……なさったんですか?」


 不思議そうに尋ねるメアリに、東洋人は少し笑った。孫娘に自慢話をするような笑みである。


「あれは、なかなかに華々しい葬式だったな。あんな清々したことは、大政奉還より十九年間ついぞなかった。別の名を天覧兜割りと言うのだが、出来過ぎなくらい巧く行った。惜しむべくは、二度と『あれ』を戦で使ってやれない事くらいだが、それでも概ね満足だったさ」


 言っていることはあまり解らなかったが、東洋人の老紳士の表情は実にさばさばしていた。自分のしてきたことに悔いなどない、そう言う清々しさだ。そんなことを言う彼が、何故、文化の滅びを嘆く白人の老紳士と連んでいるのか。


 目をぱちぱちと瞬かせるメアリに、白人の老紳士がふと思い出したように言った。


「ああ、どうも話が逸れたようだ。すまないね、お嬢さん。中央アジアは美しい土地だった。書物の中だけでも良い、それが忘れられることもなく、語り継がれればせめてもの救いだ。君のような若い少女が、その記憶を受け継いでくれたら嬉しいと、私は思うよ」


 だから君がこの本を読みなさいと、老紳士は笑って言った。


「はい、ありがとうございます」


 深々と一礼するメアリを見て、老紳士が穏やかに笑う。


「失われる時は一瞬だ。時間は巻き戻せない。『時を惜しめと、乙女たちに告ぐ(To the virgins, to make much of time)』という言葉がある。君も今の一瞬、一瞬を大切にしたまえ」


「時を惜しむ……?」


 謎かけのようなその言葉に、鸚鵡返しでメアリが呟く。その呟きへの回答は、ごく間近から帰ってきた。


 銀色の静かな声が、無感情に低く囁く。


「十七世紀の詩人、ロバート・ヘリックの詩のタイトルだ。タイトルよりも『摘めるうちに薔薇の蕾を摘み取るべし(Gather Ye Rosebuds While Ye May)』という句の方が有名だろう」


 予想外の出来事に、メアリは思わず飛び上がる。振り向くと、いつの間にかウィリアムがすぐ後ろに立っていた。


「う、ウィリアムさん!? い、いつのまに……」


 気配も何も全くなかった。あんまりにも驚いて、思わず声が吃ってしまった。しかし、ウィリアムはいつものように、無表情な顔つきと無感情な声のセットで低く言う。


「随分と長く話し込んでいるようだったから、君とこちらの紳士達とで、何か問題でも起こったかと思って。だから様子を見に来たんだ」

 

 自分を心配してくれる銀の声に、メアリはすまなさを覚えつつ、少しだけ嬉しくなった。自分はもう、一人じゃないと思えるからだ。だから、これ以上心配をかけまいと、慌てて首を振って答える。


「大丈夫、何もない、です。こちらの方と同時に本を取ってしまったのですが、譲っていただきましたから……」


 メアリは二人を示すと、老紳士達は軽く帽子をあげてみせる。ウィリアムもまた、帽子を取って一礼をした。相も変わらず正確無比な、きちっとした挨拶だ。


 互いに挨拶を終えた後、老紳士が笑って言った。


「どうやらお友達を心配させてしまったようだ。では、私達はこれで失礼しよう。また何処かで会えたらいいね、お嬢さん」


「はい、こちらこそありがとうございました」


 軽く手を振り別れを告げる老人達に、メアリは深々と頭を下げた。遠ざかる二人の背中を眺め、ウィリアムが小さく呟く。


「あの老人……。ただ者ではないようだ。彼は一体……」


「ただ者ではない、ですか?」


 どちらのことを言っているのかは解らないが、双方『ただ者』ではない事だけは確かだ。白人の老紳士は高貴な身分のようだったし、東洋人の老紳士は立ち振る舞いが尋常ではない。いずれにしろ、一筋縄ではいかない二人組だと思う。


 しかし、ウィリアムはそれについて追求する気はまったくなさそうだった。メアリを見て、逆に問う。


「ところで、君は今、酷く緊張しているようだ。本当に大丈夫なのか?」


 一番メアリを驚かせた張本人は、どうやらそれに気がついていないらしい。それがなんだか可笑しくて、つい、ぷっと吹き出してしまう。ウィリアムが、無表情から、きょとんとした不思議そうな表情になる。彼が表情を変えるのは本当に珍しい。それを見て、メアリが慌てて弁解した。


「あ、いえ、違うんです。凄く心配していただいてるんだなぁ、って思ったら、緊張の糸が緩んでしまって……」


「緊張の糸が切れると、君は笑うの?」


 不思議そうなウィリアムの問いに、メアリが答える。


「ええ。ウィリアムさんも、そういうことってありませんか?」


「僕は……、どうなんだろう?」


 ウィリアムは本気で考えているようだった。なんだかそれが面白くて、メアリはまた笑ってしまう。それを不思議そうに見ていたウィリアムが、ぽつりと言った。


「君は笑うと花のようだ。昔とまったく変わらない」


「……え?」


 突然の言葉に、メアリが固まった。ウィリアムはフォッグ二世のように、お世辞や社交辞令を言うようなタイプでは無いというのがわかる分、どぎまぎとしてしまう。


「君の笑顔が、やっぱり僕は好きらしい。君がこれからも笑ってくれたら良いと、そう思う」


 フォッグ二世のように、あからさまに冗談だとか、口説き文句だとわかるものならば、メアリも特に気にしなかったに違いない。けれど、淡々と告げられたその言葉に嘘や悪ふざけの色は微塵も無く、誠実さだけが滲んでいた。


 何と答えて良いかわからないまま、メアリはただ、ウィリアムを真っ直ぐ見つめる。その蒼い目は、やっぱり少し茫としていて、それでもとても綺麗な澄んだ色をしていた。空の青とは違う蒼。


 一瞬の沈黙は、何故か永遠のようにメアリに思えた。

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