Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

48

公開日時: 2020年11月10日(火) 18:00
文字数:2,801

「ジズ……。まさか、君はギルバート・ジズ氏の血縁者かね?」


「はい、私はメアリ・ジズといいます。ギルバート・ジスの娘ですが……、あの、お父様を知っているんですか?」


 ラーゼスの口から出た父の名に、メアリは驚いて問い返す。ラーゼスは渋い笑みを浮かべて頷いた。


「ああ、良く知っている。十二、三年前だったか。少しの間、一緒に仕事をしたのだ」


 赤銅色の声には何のブレもない。数値も安定している。この人は、真実に父のことを知っているのだと嬉しくなった。


「君の父上は、実に頭の切れる男だったよ。とても紳士的な人物で、誰にでも公平で――」


 ラーゼスの眼が、一瞬だけウィリアムを見た。


「そして、本当に世界を救おうと真摯に願っていた。実に生真面目な男だったな」


 その声は、どこか冷ややかだった。色も沈み、数値もすこし下がっている。同情にも似た色だ。


 しかし、メアリが疑問に思うまもなく、その色は直ぐに消えた。ラーゼスは機械に潜り込むと、どこかを軽く調整して言う。


「では、早速だが実験を始めよう。地下より四則演算の式を送るから、君は片っ端からそれを計算し、中央処理機関へ入力してくれ。今回はピタゴラス式天球の音階を用いる」


「ピタゴラス式……?」


 きょとん、とするメアリにウィリアムが静かに囁く。


「ギリシャの学者、ピタゴラスが唱えていた説だよ。天体の運行が音を発し、宇宙全体が和声を奏でているという学説だ。ピタゴラスは宇宙の音を正確な数字にして表したと言われている。原本こそ失われてしまったけれど、写本などから後世の学者や音楽家達がそれを再現したんだ」


「天体の運行が発する音って……」


「そう。鉱石ラジオが拾うノイズは宇宙の声だ。囁く宇宙の音楽とも呼ばれている。つまりこの機関は、宇宙の声を奏でられるんだ。おそらく、君のその音声を色と数字で認識する能力からヒントを得て、ジズ先生はこれを設計したんだろう」


 ウィリアムの言葉に、メアリは何故か胸が詰まった。もう、ほんの僅かしか覚えていない父親を、急に身近に感じたからだ。


「……多分、先生は、君のためにこれを設計したんだ。だから、君は難しいことなど何一つ考えず、心の赴くままにこれを奏でればいいと思う」


 銀色の声は、普段と異なり、ほんの僅かだけ青みを帯びている気がする。青は冷たい印象の筈なのに、優しいふうにメアリは感じる。


「はい、ありがとうございます」


 丁寧にお礼を言うと、ウィリアムが少し笑ったようだった。二人の会話を興味深そうに聞いていたラーゼスが口を開く。


「そういうわけだ、メアリ君。では、これから地下に行って、解析機関を起動させる。ウィリアム、君はこちらを手伝いたまえ」


 赤銅色の声は、さっきよりも数値があがっていた。面白がっている、ということだろう。一方、ラーゼスに話しかけられたウィリアムは、露骨に嫌そうな顔になる。一瞬とはいえ、メアリは、この青年がここまで嫌悪感をあらわにするのを初めて見た。


「…………わかった」


 間の開け方も、明らかに気乗りしないことを如実に表していたが、しかし、断ることはしないようだ。


「そこまで嫌がることは無いだろう? 久しぶりに中身も確認せねばならないのだ、一石二鳥だ」


 ラーゼスのからかうような言葉に、ますます眉間の皺を深くするウィリアムだったが、メアリの視線に気がつくと、すっと元の無表情へと戻る。


「あの……、気をつけていってらっしゃい」


 なんとなく励ますように言ってしまうメアリを見て、ラーゼスが呵々と笑う。


「別に取って食いはしないから安心したまえ。これは、私のことが嫌いなだけだ。しかし、私情を仕事に挟む真似はしないから、その点は実にいい」


 褒めているのだか茶化しているのだか分からない物言いだったが、しかし悪意はないようで、メアリは少し安心した。


「では、今から二十分後に実験を開始する。最初は小さい桁からだが、徐々に桁を大きくしていく予定だ。無理だと思ったら、誰かに気送管でその旨を地下まで送らせてくれたまえ」


「はい、わかりました」


 素直に頷くメアリを確認し、ウィリアムは無言でラーゼスの後についていく。なんとなくその背中に嫌悪感を漂わせているのは気のせいだろうか。


――ウィリアムさんにも苦手な方がいらっしゃるのね。


 実験の事よりもウィリアムの事が気になって、メアリは二人の背中を見送った。


「なんだか有無を言わさず実験が始まってしまったねぇ……。途中で具合が悪くなったりしたら、必ずそれを私達に言うんだよ? オペレーターへの影響、それも含めての実験だから、我慢されたら正しいデータがとれないからね」


 そう囁くフォッグ二世の声は、数値が大きく下がっている。明らかに嘘だということだ。多分、本当に具合が悪くなったとき、メアリが素直に申告できるようにしてくれているのだろう。


 嘘には、こういう優しい嘘もある。だから、素直にメアリも頷いた。


「はい、わかりました。ありがとうございます」


 教授は近くの椅子に腰掛けて、二人の会話を眺めている。そんな彼の元に、給仕が一人、カードを持って現れた。


「失礼します。オーナーより、こちらが」


 そのカードを一瞥し、教授が唇の端を軽く吊り上げる。カードに何かを書き込むと、また給仕に渡した。


 その一連の動きは流れるようで、一切の遅滞がない。


「じゃあメアリ嬢、頑張ってくれたまえ。疲れたら本当に直ぐに言うんだよ」


 まるで兄のような事を言ってから、フォッグ二世は教授の下へやってくる。


「随分悪い顔じゃないですか、教授。何かありましたか?」


「いや、《オーナー》からの伝言があってね。少数派との取引が許可されたのだ。代わりに一人、用心棒を雇うようにという指示があったが」


 何か知っているのではないのかね? と続ける教授に、フォッグ二世は曖昧に笑って見せた。


「私のような若造では、ああいう御仁のお相手は出来ませんよ。それに、あの方が用心棒を付けろと言われた以上、きっと彼女の身に何かがあるのでしょう」


「ウィリアムだけでは足りない《何か》、か。今の私では、それを知る術が無い。まったく忌々しい話だ」


 教授が、ふん、と気に入らなそうに鼻を鳴らす。フォッグ二世が取りなすように言った。


「だからこそ、この機関の開発を急がねばならない、ということですよ。《千夜鶏鳴結社》の亡霊から、この国を守らねばなりません。そのためにもメアリ嬢を……」


「……まったくあの娘はどういう星の下に生まれてきたのだろうな。彼の名探偵に《穢れた血》と呼ばれた男の血を引く上に、命の冠の乙女などという、訳の分からぬ宿命まで背負わされる。実に迷惑なことだ」


 珍しく強い感情をあらわにする教授の目線は、計算という音楽を奏でるメアリから動かない。


 いよいよ実験が始まったのか、少女の手が動き、そこから妙なる音楽が流れ出す。メアリにとって、それはただの計算なのだろう。けれど、その音は天上の美姫が歌う子守歌のようだった。

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