「理屈の上ではそういうことかな。どんなに優れた技術に関わる方程式であっても、計算できなければただの落書きと同じなんだ。そこが、現実と理論を隔てる最大の壁でもある。だからこそ、その状況を打破しようと、一八二二年、倫敦生まれの数学者、チャールズ・バベッジが膨大な計算を行う機械、『階差機関』の最初の設計を王立天文学会に提案した。これは実に画期的なアイディアだったのだけれど、しかし、それの開発は、技術者とのいざこざや、資金的な問題で頓挫している。バベッジは、後に『解析機関』と呼ばれる、プリントアウト機関まで備えた計算機関も考え出しているが、そちらもまた、完成には至らなかった。理論は完璧であっても、実現しないものは、結局は無いのと同じだ。機械に頼ることが出来ない以上、結局は計算は人力でこなす事になる。そう言う意味で、君のような計算手はとても貴重だ」
ウィリアムの解説に、メアリは少し憂鬱になった。
メアリが他人から認めて貰えたのは、計算手としての能力があっての事だ。しかし、それも期限付きのことなのだろう。設計図まであるのなら、日進月歩の世の中だ、近いうちに解析機関というそれが完成する日も来るはずだ。計算機があったなら、計算手は必要なくなる。織機の発明で機織りの職人が居なくなったのと同じ事だろう。
メアリの能力は、いずれは不要になる能力だ。計算手の能力が必要なくなれば、また捨てられる日が来るのかも知れない。そう思うと、ほんの少し胸が痛かった。
勿論、そういうつもりでウィリアムは言ったのではないだろう。きっと彼は、解析機関がない現在、計算手がどれだけ必要とされているかを伝えてくれたのだと思う。そんな思いやりを否定的に捉えてしまう自分は、本当に屈折している。
その屈折も含めて、熟熟自分が嫌になる。
心の中でほんの僅かに落ち込んでいると、不意にウィリアムがメアリの頭をくしゃりと撫でた。
「そんな顔をしなくてもいい。君が不安に思うようなことには、決してならない」
まるで小さい子を慰めるような、励ますようなそんな仕草だ。この青年には似つかない仕草なのに、何故だかそれはとても彼によく馴染む。
「どうして私が不安だと……」
びっくりしてウィリアムを見上げると、あの銀色の声でぽつんと言われた。
「君のその癖は、昔から変わらない。哀しかったり寂しいときは、何も言わず、一人でいつもそんな目をする」
茫とした蒼い目は、ただ真っ直ぐにメアリを見つめる。メアリはその目を見つめたまま、驚くしかない。
自分にそんな癖があるかどうかはわからないが、しかし、この青年は何故、そんなことを知っているのか。そもそもウィリアムとは、出会ってまだ二十四時間も経っていない。
「あの……、どうしてウィリアムさんはそんなことを知っているんですか?」
心から疑問に思い、メアリは思わず訊いてしまう。一言も聞き漏らすまいと、彼の声に目を凝らす。ウィリアムは普段とまったく変わらぬ声で静かに言った。
「……君はもの凄く小さかったから、覚えていないのも無理はない。僕は君が赤ん坊の頃、少しだけど共にいたんだ」
淡々と告げられるその言葉に、嘘の気配は一切無かった。銀色の数字は普段とまったく変わる事もない。表情だって普段通りで、だから彼の言うことは嘘ではないと信じられる。
確かに、ウィリアムは父のことを知っていたのだから、娘であるメアリのことも知っていてもおかしくはない。その事に思い当たっても猶、どこかで戸惑う部分がある。
戸惑うメアリを見て、ウィリアムが弁解した。いや、弁解ではないだろう。事実だけを話す声だ。
「別に、隠しているつもりはなかった。昨日……、いや、正確には今日だけれど、十四年振りだというのに、君のことは一目でわかった。その事がとても嬉しかったけれど、でも、君は誰かに追われていたし、あちこち怪我をしていて、再会を懐かしむような雰囲気では到底無かった。落ち着いたら話そうと思っていたけれど、なかなか話す機会がなくて、今頃になってしまったんだ。すぐに話せば良かっただろうか」
ウィリアムの問いに、メアリはやや茫然としながら首を横に幾度か振った。メアリには五歳以前の記憶がない。尤も、事故で失わなくとも、三歳以前の記憶など、多分在るはずもないのだが、しかし、彼のことを覚えていないのも事実だ。
一方で、ウィリアムは幼なじみであることを話すのが遅れたと言ってくれたが、一応は出会った当日に告げてくれているわけだから、決して遅いわけでもない。寧ろちゃんとTPOを弁えてくれている。
どちらかと言えば、不義理なのは、彼の存在を忘れていたメアリの方だ。なんだか申し訳ないような、嬉しいような、居たたまれないような、そんな気持ちが混ざりあい、自分でもどうすれば良いのか解らない。何も言えずに、ぱくぱくと口を開け閉めしてしまう。
そんなメアリを見て、ウィリアムがまた言った。
「君にまた会えて、本当に良かった。君が生きていてくれて、僕は本当に嬉しい」
普段とまったく変わらない無感情な声で告げられたその言葉に、メアリは思わずウィリアムを見上げてしまった。
何故だろうか、彼にそう告げられた途端、メアリの目から、すーっと涙が一筋零れた。ぽたっと床に涙が落ちて、そうして丸い染みを作る。一滴、二雫。
三滴目が零れたあとで、ウィリアムが手を伸ばし、指の背でメアリの頬を拭ってくれた。
いつもの無感情な声で、けれどもどこか戸惑うようにウィリアムが訊く。
「どうして君は泣いているの? 僕は、何か余計なことを言っただろうか」
その言葉に、メアリは涙を拭われたままに首を振る。
「違います。これは多分、嬉しいんだと、思います」
多分というのは、自分でも、何故泣いているのかがよくわからないからだ。教授のような負い目からではなく、純粋に『メアリ』が『生きている』事を喜んでくれる人がいること、その事が多分嬉しい。
泣くほどのことだろうかと自分でも思うのだが、けれど、事実、泣いている。多分今の言葉は、メアリが思う以上に、胸の奥に響いたのだと思う。
ウィリアムはそんなメアリの涙を黙って拭ってくれる。一言も余計なことをいわないのがとても良かった。感情は多分言葉には出来ないし、言葉にしてしまった途端、まったく別のものに変わるからだ。
言葉でしか他者に想いを伝えられないのに、言葉にするとそれは別物に変わってしまうと言うのは、聖書で言うところのバベルの呪いだと思う。
人間は神の怒りに触れて、すべての言葉をばらばらにされてしまった。本当の言葉はその時に失われて、今、人間が使っている言葉は、きっと総てが紛い物なのだ。この人に自分の抱えているこの想いを伝えることは出来ないし、自分も彼の言葉の真意はわからない。
人と人の間には、いつでも柔らかな膜が張っていて、言語のみがそれを破れる。でも、その膜は破ってはいけないものだ。浸透するように、膜の向こうに染みこませられるものだけが、今、この場で必要なものだった。
けれど、『それ』が何なのか、メアリには良くわからない。だから、黙っているしかない。
涙は案外、すぐに止まった。何故だか時間も止まった気がする。
稀にそういうことがあるのだが、瞬間的に音が消えた。呼吸の音も、衣擦れの音も、外の騒音も何もない。しん、という、あの静寂の『音』さえなかった。
妙な緊張と、水面のような揺蕩う感覚が辺りに流れる。視界に音がないのは久しぶりで、だからこそ動けない。その何かを壊してしまうのが何故だか妙に怖かった。
奇妙な沈黙を破ったのは、不意に訪れたノック音だ。執事の声が、外から聞こえる。
「お嬢様、仕立屋がまいりました。予定よりも少々早くて申し訳ありませんが、準備をしていただけますか?」
「……わかりました、すぐに連れて行きます」
メアリが答えるより早く、ウィリアムが返事をした。ウィリアムはそのままメアリにハンカチを差し出した。彼にハンカチを貰うのは二度目であるが、一度目は血で汚してしまっている。
だからこそ、それを受け取るのを躊躇うメアリに、ウィリアムはハンカチを押しつけるようにした。仕方なしにメアリはそれをまた受け取る。
この人には纏めてハンカチを返さなければならないだろうと考えて、それが面白くて、少し笑った。
「ありがとうございます」
笑いながらお礼を言うと、ウィリアムは茫とした目のままで頷く。
「服と靴が、早く出来上がるといい。君に見せたいものが沢山あるんだ」
書庫のドアを開けながら、ウィリアムがぽつりと言った。
「そうですね」
その言葉に、メアリは小さく頷いてみせる。
彼と自分が幼なじみと言うことが、なんだか奇妙に嬉しかった。自分に幼なじみがいたのだという、その事実だけでなんだかとても救われる。メアリは先を行くウィリアムの背を追いかけていく。
応接室に続く回廊に、あの異界へと続くような違和感は何もなかった。
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