Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

第四章

53

公開日時: 2020年12月15日(火) 18:00
文字数:3,970

 第四章



 今日も相変わらずの雪が降る。初雪から数えて七日目だ。


 その日、教授と共に王立ベスレム病院――通称ベドラムに赴いたフォッグ二世は、恐ろしく不機嫌だった。不機嫌を通り越して、頭痛がするほどだ。しかし、生来のひねくれ者を自負するこの青年は、機嫌が悪ければ悪いほど、陽気に明るく振る舞うのが常である。それ故、彼が不機嫌だということは、父の代からの執事であるパスパルトゥーさえ知らなかった。


 フォッグ二世が機嫌が悪いのは、慈善家のフリをして寄付金を払い、そうして精神病院を見物するという悪趣味な連中と同類になることに耐えかねていたからだ。


 ベドラムに入れられるのは心を病んだ者以外にも、冤罪で入れられた者も多い。そんな彼等は無罪や自分の正気を鉄格子の中から悲痛な叫びで訴えるのだが、しかし、それは必死であればあるほどに何処か滑稽味を増して行く。


 完全な安全圏で人の狂気を見るのは、純粋に面白い。慈善活動の一貫、あるいは寄付の代償として、人々は高みから彼等を見下ろし、そして安堵する。自分が正気であることに。


 フォッグ二世にとって、これほど悪趣味極まりない事はそうそうない。免罪符を盾に罪を否定するような無様さは、寧ろ憎悪の対称だった。


 ベドラムの中を肩を並べて歩きながら、教授が無表情に言う。


「百年ほど前は、精神病院は純然たる見世物だったらしいのだがな。今はどちらかというと、秘めたる見世物になりつつある。人間の悪趣味さというのは、百年やそこらでは変わらないという好例だ」


 その声には、皮肉めいたものも、また憐憫も何もない。淡々と事実だけを告げるだけだ。


「こういう場所であるからこそ、真実の吹きだまりとして機能する。覚えておきたまえよ、フォッグ卿。あり得ない真実というものは、得てしてこういう場所に眠っているのだ」


 若干非難めいた目をしてしまったフォッグ二世に、教授が淡々と言った。


「心得ておきますよ、教授。しかし、本当にここに事件の手がかりが在るんですか? こんな所まで人を付き合わせて、何もなかったら温厚な私でも怒りますよ?」


 機嫌よさげに軽口を叩くフォッグ二世を冷淡な目で一瞥し、教授は言う。


「あるから来たのだ。しかし、付いてきたのは君の勝手だろう。私は君を誘った覚えはない」


 普段と異なり、それは幾分同情的だ。多分、教授がフォッグ二世の不機嫌に気付いているからであろう。そんなに自分はわかりやすいかと、フォッグ二世は二十一才の青年らしく、心の中で少しむくれる。


 王立ベスレム病院に行く、と教授が言い出したのは三日前のことだった。曰く、ソーホーでの連続殺人事件の手がかりを見付けたのだという。


 何故、教授がそうだと断言したかはわからない。しかし、彼には世界規模の情報網がある。おそらくは、既に、何かの手がかりを手に入れているのだろう。


 その事についての詳細を教えてくれれば良いのだが、教授は確定的な証拠が見つからない限り、自分の予想を外に漏らす事は殆ど無い。


 元から教授は、秘密主義並みに自身の考えを表に出すような人間ではないのだが、丁度一週間前、四人で会合を持った日から、余計にその傾向は強くなった。さもありなん、と、フォッグ二世はそう思う。


 あの日、エイシェト博士から聞いた千夜鶏鳴結社の実験は、悍ましいというよりも、人は人に対して狼になれる事を証明するようなものだった。


 無差別殺人を行っていた、と聞いた方がまだ釈然と出来ただろう。それは殺人よりも質の悪い実験だった。


 メアリ・ジスという、あの少女をフォッグ二世は気に入っている。それは恋愛感情の類いでは決してない。彼女の素直さ、明るさ、そうして時折滲み出る、妙な屈折や歪みが好きなのだ。


 その歪みの度合いが、自分と似ているところが特に好い。


 フォッグ二世には、実業家という顔以外にももう一つ、王室付きの秘密情報員という顔がある。個人的には実業家の顔だけにしたいのだが、そうも出来ない理由があった。


 それは、王室付き秘密情報員というものが、父であるフィリアス・フォッグから受け継いだ家業そのものだからである。


 フォッグ家は代々王家のためだけに働く、個人的なエージェントだった。聞けば、ヘンリー七世の代からというから年季が入っている。


 かつて先代のフィリアス・フォッグが『彼の姿はどの株式取引所にも、銀行にも、またシティのどんな商社の店先にも見かけられず、倫敦のどこのドッグにも『船主・フィリアス・フォッグ」の名を持つ船が入ったこともなかったし、この紳士は何処の役所へも姿を見せなかった』と言われたのにもかかわらず、ベアリング兄弟銀行に口座を持ち、四万磅もの莫大な資産を持っていたのは、つまりはまぁ、そういうことだ。


 あの八十日間で世界一周したのは飽くまでも彼の闘争によるものであるが、そのついでに様々な仕事も並行して行っている。あの旅行記に書かれなかった事柄は山のようにあり、その報告書は几帳面にもフィリアス・フォッグ自身の手ですべて記載され、実家の金庫に収まっていた。


 母親やパスパルトゥーは、未だにフォッグ家の家業を何も知らない。フォッグ二世も、十五才になって、父が王室付きのきわめて有能な秘密情報員だと初めて知った。


 家業の事を教えたのは父自らだった。それも、書斎に呼び出すだとか、あるいは二人きりの小旅行の最中だとか、そんな特別な事は一切せず、いつものように革新クラブへ向かう途中、偶々廊下ですれ違った息子に、足も止めずに言い放ったのである。


「明日からお前も私の同僚だ、早急に心の準備をしておくが良い」と。


 勿論フォッグ二世には、何のことだかさっぱり分からなかった。翌日に宮殿へ連れて行かれ、エドワード皇太子と、彼の長男であるクラレンス公アルバート・エドワード王子と対面したときになって初めて、彼はフォッグ家の本業を知ったのだ。


 エドワード皇太子もそうであるが、エドワード王子も世間的には『出来の悪い放蕩息子』だと噂されていた。ゴシップ記事で満載のデイリー・テレグラフや大衆紙のパンチ誌には、毎週のように彼等のスキャンダルが面白可笑しく掲載されていたし、実際にヴィクトリア女王は決してこの二人を公務に携わらせることはしなかった。高齢のヴィクトリア女王が未だに王位を皇太子に譲らないのは、英国史上最大の愚王の誕生を不安視しているからだと、人々は――フォッグ二世も含め、そう信じていたのである。


 しかし、実際に会ってみると、事情はまったくと言って良いほど異なっていた。女好きというのは間違いなかったが、皇太子は無能な人間では決してない。寧ろ、天才的ともいえる外交の能力があり、仏蘭西や露西亜との関係を改善させたり、また、王室の人間であるのも関わらず、人種的偏見が全くなく、白人の非白人に対する横柄な態度を見て眉をひそめるような人間でもあった。


 外見上は白人であるが、半分は印度人の血が流れているフォッグ二世としては、それだけで皇太子は尊敬に値する人物であったし、その長男であるクラレンス公は更に革新的な人物で、技術革新の世紀における戦争の危険性をはっきりと理解していた。決して無能ではあり得ないこの二人が政治に関わることが出来なかったのは、双方の戦争回避への姿勢が、好戦的でさらに植民地を広げようとする女王と対立するものであったからである。


 父はあくまでも古き英国人らしく女王派であったが、息子であるフォッグ二世は皇太子派、特にクラレンス公に仕える事を選んだ。年が近いということもあったし、一目見て、この人こそ、という、そういう閃くものがあったからだ。フォッグ二世は、それから六年間、女王派と皇太子派の水面下に於ける烈しい血みどろの戦いに身を投じる――否、むしろ巻きこまれる事となる。


 それまでは割合真面目な学生だったフォッグ二世が、一転して軟派で軽佻浮薄な紳士になったのは、多分、その日からだった。そうならなければ、色々と耐えられなかったからである。


 フィリアス・フォッグは、英国紳士として、夫として、エージェントとして、あるいは一人の人間としては非の打ち所のない男であるのかも知れない。しかし、少なくとも父親としては最低の部類に属すると、フォッグ二世は思っている。息子として彼と会話を交わした時間は、二十一年の人生で、多分半日にも満たないだろう。


 フォッグ二世は、一度も父親に触れられた記憶がない。撫でられたこともなければ、抱き上げられたこともなく、更には殴られたことさえなかった。実の息子だというのに、常に距離を置かれ、下手をすると、そこにいないものであるかのように振る舞われたこともしばしばある。フォッグ二世が歪んでいるのは、間違いなく父のせいだし、その歪みがかろうじて人間の範疇に収まっているのは、母とパスパルトゥーが惜しみない愛情を注いでくれたおかげだ。


 フィリアス・フォッグの息子というだけで、フォッグ二世は常に彼と比べられる。人は、フォッグ二世の軟派な性格を、偉大な親に対する劣等感によるものだとそう思う。逆立ちしたって敵わない男が父親だなんて、なんて哀れなんだと同情までされる始末だ。


 しかし、フォッグ二世は別に父親に対して劣等感など持っていない。更に言えば、憎しみだって特にない。父親に対する感情は、もっと別の、複雑な、でも、これ以上ないと言うほどに単純な、『いけ好かない』という一言で表せる類いのものだ。だからこそ、比べられ続ける現実にはうんざりしている。


 フォッグ二世は、好きで父親とは全く違う、軽佻浮薄な若造になっているのだ。単純な楽しみ事というのは、複雑な人間にとっては、最後の避難所だからである。それさえも誤解されてはたまったものではない。


 そんなことをぼんやりと考えていると、不意に教授が一つの『病室』の前で足を止めた。

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート