Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

36(第一部・完)

公開日時: 2020年10月11日(日) 18:00
文字数:1,629

 コックス・オレンジ・ピピンを持ったメアリは、階段を上って部屋へと向かう。


 部屋の明かりをつけ、コート掛けに上着を掛け、手洗いとうがいをした後で、メアリは長椅子ソファーに倒れ込んだ。


 プライベートな空間に戻った途端に、どっと疲れがでる。


 あのミューディーズでの大立ち回りだ。疲労しない方がおかしい。


 特に最後のあの計算は、自分から、気力や体力を含め、ごっそりといろんなものを奪っていったと、そう思う。


 スイッチを入れる度に、あの時の記憶は益々深く心の中に刻まれていく。人は忘れることの出来る生き物であり、それが救いと言うけれど、あんまりにも深く刻まれすぎて、多分、あれを忘れることなど、メアリには最早出来ない。


 心の傷に薄皮が張る度に、自分で破るような真似をしていては、いつまで経っても傷は治らず、延々と血を流し続けるだけだろう。それがわかっていながらも、それでも、求められれば、メアリはそれをしてしまうのだ。


 自己犠牲が過ぎると言うより、ただの愚者だ、と自分でも思う。それでも、止めることが出来ないから、余計に始末が悪い。


 誰かのためというよりも、誰かに求められたいから、だからそうやってしまうのだ。孤児というのは、やっぱりどうしても居場所を欲する。自分を求めてくれる人には、無条件で尽くしてしまうような所があった。


 それでは駄目だとわかっているが、しかし、ひとりぼっちは嫌なのだ。普通の孤独は怖くない。でも、あの棺の中の真の孤独は本当に怖い。


 軽い自己嫌悪に、メアリは立ち上がる気力もなく、手にした林檎を一口囓った。


 甘酸っぱく爽やかな果汁が口の中に広がって、ようやく人心地が付いたような気がする。予想以上に空腹だったようで、メアリは夢中になって林檎を食べた。林檎を食べている間に、さっきの自己嫌悪の波は去るようで、だから、余計に集中する。


 林檎を総て食べきる頃には、現金にも、だいぶん気力が戻ってきたようだ。本当に、コックス・オレンジ・ピピンは魔法の林檎だとメアリは思う。


 芯だけになった林檎を捨てるため、メアリはソファーから立ち上がった。屑籠まで歩いて行って、ぽとんと落とす。


 メアリは運動神経があまり良くないので、放り投げても確実に外してしまう。だから、最初から、ゴミは立って捨てることにしている。その方が合理的だからだ。


 ソファーに戻りながら、メアリはふと、ウィリアムだったら、百発百中で屑籠にゴミを投げ入れられるのだろうな、と考えた。


 あの射撃は恐ろしいくらいに正確だった。メアリがはじき出した計算通りの軌道とタイミングで撃たなければ、あの『音』は決して生まれなかった筈である。


 それを事もなげに行える身体能力は凄まじい。運動がやや苦手で、どんくさいメアリには、それが酷く羨ましかった。


 自分にとんぼ返りがうてたなら、きっと世界が変わるのだろう、と思うことがしばしばあるが、それと同じような感覚だ。ああいうのも、きっと個性のひとつなのだろう。


 メアリにとって、計算以外の個性と言えば、決断の速さしかない。それはあまり誇れる物ではないと思う。


 あの時、ミューディズの中でのウィリアムの問いに即答したのも、別に自分が罪を背負うことを良しとしたわけでない。単に『出来る』から、それを選んだだけだ。


 出来るならやるし、出来ないならやらない。それにどんなリスクがあろうとも、ひとつにひとつ、二つは選べないのだから。選んだことによって生じる手間やごたごたは、また次元が違う話だろう。


 そういう意味で、此の世はとてもシンプルだった。


 今日の事件は終わったことで、今後のことは、多分、自分には何の関係もない出来事だ。


 ――そう思わなければ、自分はここに居られない。


 心の中でそう呟くと、メアリはそっと目を閉じた。夕食まで、少し眠ろうと思ったのだ。


 三呼吸で眠りに落ちるまでの僅かな間、メアリが考えていたのは、此の世に神が居るのであれば、今日、助けられなかった人々が、願わくば最後だけでも安らかに、という事だった。


第一部・完

(『第一部・完』とありますが、明日からも毎日更新は続きます)

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