Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

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公開日時: 2021年3月27日(土) 19:12
更新日時: 2021年3月27日(土) 19:17
文字数:2,756

  ケンの口調はいつにも増して老獪さを滲ませていた。


 いつの時代も若者には、正義というものへの妙な過信がある。正義が如何に脆く、力在る者の都合一つで書き換えられるかをまだ知らない幼さと、正しいものへの憧憬が一緒くたになったが為に起こる過信だ。


 正義は在る。しかし、それは盤石のものでは無く、その時代の都合によって簡単に変化する、とても脆くて曖昧なものなのだ。

 教授がため息交じりにぽつりと呟く。


「脆いからこそ正義は美しく見える。しかし、脆いものは鑑賞くらいにしか使えんというのが世の常だ。しかし、美しいものには価値がある。その価値のためにも、彼はもう少し醜悪であった方が良いのだが」


「ふむ。貴殿は随分と彼を買っているようだな」


 感心したようなケンの言葉に、教授はにこりともせずに答えた。


「そうだな。彼は理想のためならば悪党にもなる度胸がある。己の私利私欲のために悪党に堕ちることなら誰にでも出来るが、理想に殉じて悪党になれる者はそうそう居らん」


「だからわざとああして鍛えている訳か」


 ケンの問いに、教授は肩を僅かに竦めてみせる。


「鍛えるというよりも、あの程度の逡巡などさっさと割り切ってもらわねば困る、という話だな。意志という刀の切っ先を鈍らせるのは、常に罪悪感から生まれる迷いだ。その辺りのことを理解できぬと、あっさり堕ちる。迷いたいのならもっと暇なときにしろ、という事だ」


 随分と捻くれた思想であったが、それこそが老獪さというものの正体なのかもしれない。教授と同程度には老獪でもあるケンにはそれがよく分かる。


「貴殿は人を教えることに手慣れているな」


「それもまた、生業の一つだからな」


 そっけないとも言える口調だが、不思議と腹は立たない。むしろ、軽口のようにも聞こえるのが面白かった。


 突き当たりから数えて三番目のドアの前で、教授の足がピタリと止まる。


「私はここで休ませてもらおう。ケン殿も適当な部屋で休んでくれ。どうせウィリアムが目覚めぬ限りはあの娘の場所もわからんのだ、今のうちに少しでも回復しておくのが一番良い」


 教授にしては珍しい親切な物言いだ。ケンも素直にそれに従う。


「そうさせていただこう。我々も若くはないことだしな」


 メアリをわざと敵に攫わせた張本人達は、特に罪悪感にさいなまれる様子もなく、普段通りに淡々としている。


 それが彼等の冷淡さから来ているものか、それとも必ず救い出すという算段が付いている為なのか、答えが出るのはまだ先だった。




 老人達が食堂から消えて十分ほどが経っていた。フォッグ二世は人気の無い食堂で、醒めた紅茶を啜っていた。強い酒でも欲しいところだが、さすがにそんな場合では無いという分別は残っている。


 教授からは休むように言われていたが、到底そんな気になれない。攫われた少女のことを思うと胸が痛んだ。


 フォッグ二世はメアリ・ジズという少女を気に入っている。もちろん恋愛対象などではなく、その感覚は友人と言うより妹を見守る兄という感覚が近い。


――初めて彼女のことを聞いたときは、まさかここまで肩入れするとは思わなかった。


 半年前、初めて教授の口からメアリの話が出た時の事を思い出す。


 その頃のフォッグ二世は、三月から発足したローズベリ内閣のおかげで諜報員としての仕事が目減りし、逆に資本家らしく投資の方が忙しくなっていた。


 投資というのは経験と情報が物を言う世界である。世界各国に植民地を持つ英国なら尚更だ。遠い異国の地で起こったささいな事件が、一ヶ月後には株の大暴落を引き起こすかも知れないし、逆に高騰するきっかけになるかもしれない。それを完全に読み切って確実な利益を上げるには、とにかく情報をいかに早く、そして正確に入手できるかに掛かっていた。


 こと、情報の速度においては島国である英国は不利である。海によって大陸と隔てられている距離が僅かとはいえ、陸地では電信によって数分で届く情報も、英国ではわざわざ船を出して運ばねばならない。コストも時間も掛かる上、届いたときにはもう古くなっている可能性だってある。


 海底電信ケーブルを用いて離れた陸地間を結び、情報の伝達速度を上げようという試みは一八五一年に開通したドーヴァー海峡電信ケーブル事業から開始された。一八五八年には亜米利加大陸と、そして一八七〇年には印度と英国を結ぶ海底電信ケーブルが出来ている。


 これら海底ケーブルのおかげで、情報が伝達する速度は飛躍的に伸びていたが、逆に情報の精度はというと、船を使って文書乃至口頭で伝えるよりも些か悪くなっていた。


 通信に使われるモールス符号の特性により、ごく一部の文字を除いては、一文字送るだけでも最低二回の入力を必要とする。更には入出力のミスも手紙と比べてやや多いという統計結果もあった。


 この問題を根本から解決すべく、フォッグ二世も研究所を建て、独自の手段で通信に数字のみを用いて暗号化した圧縮言語を作る研究を進めさせていたが、さすがに一朝一夕で完成するような物でもない。


 経験も浅く、また通信でのイニシアチブもとれない以上、二十一歳の若者に投資事業は荷が重い。だからこそフォッグ二世は投資に当たって顧問を雇った。それが教授だ。


 このアルフレド・ジェイムズという数学教授とは、三年前に本業の方で知り合った。彼の冷徹な頭脳と卓越した推理力、そして恐ろしいほどの行動力は他の追随を許さない。あらゆる業種に知己が居り、そこから引き出した情報の分析力のすさまじさに、おそるおそる投資部門の顧問になってくれないかと依頼したところ、彼はあっさりそれを引きうけた。


 三年間の間に教授が稼ぎ出した金額は、五十万ポンドを優に超える。この金額がどれほど異常な数字であるかというと、当代で最も裕福な大地主の一人であるバクルー公爵の年間収入が二五万ポンドだということからもわかるだろう。


 投資というのは種銭が多ければ多いほど手堅く、そして利益を増やしていけるようになる。金は金を呼び、気がつけばフォッグ二世は口外できないくらいの資産を持つようになっていた。


 一生豪遊しても使い切れない大金を持っても、フォッグ二世が特に調子に乗ることはなかったのは、皮肉なことに父親の存在がかなり大きい。


 八十日間で世界一周を果たして名誉と大金を手にしても尚堕落しなかった『フィリアス・フォッグ』という存在が身近にあったせいで、フォッグ二世もまた、彼と比べられる事を良しとしなかったからである。


 父に対する反骨心のおかげで堕落を免れた、というのもフォッグ二世にとっては気に入らないが、父は高潔なのに息子は堕落した人間だ、と影口を叩かれるのは更に気に入らない。


 そんなこんなで、増えすぎた金をどうするか、という贅沢な悩みを抱えるようになったフォッグ二世だったが、それはあっさり解決した。

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