大英帝国、リヴァプール。――始まりは、あるいはこの場所だったのかも知れない。
イーストエンドの騒動と同時刻。倫敦から南へおよそ八十哩の港町でも事件は起こった。
深夜であるにもかかわらず、港に停泊した汽船からは、一斉に乗客達が降りていく。極東――日本からの船である。乗客の数は意外と多く、タラップの辺りでは少しばかり渋滞が起きているようだ。見れば、本国では流行遅れのバッスルを付けた婦人が階段を降りるのに難渋しているものらしい。彼女たちはおそらくは、日本帰りの外交官や大使の妻や子女だろう。時期的に、今年の八月に日清戦争が勃発した為、身の安全を考えて帰国を選んだ者達だ。
低気圧の影響で深夜の入港になってしまったが、彼女たちは皆、安堵したかのように懐かしい祖国の地を踏んでいた。
一方で、明らかに物見遊山の船旅から戻ったと言わんばかりの放蕩家丸出しの紳士達もいる。彼等は一様に上質な帽子と外套を身につけ、最新の流行である、藤の杖に見事な彫刻の施された象牙や獣の角などの握りを付けたステッキを持っていた。仕事などで海外に長期滞在していた者ではなく、単なる旅行帰りだという証拠だ。
近頃、裕福な資本家や上流階級の間では、海外旅行が密かなブームとなっている。海外と言っても、ドーヴァー海峡を渡った直ぐ側の、仏蘭西や伊太利亜への旅行ではない。最近の流行の旅行先は、異国情緒溢れる印度帝国や南阿弗利加、そして極東の日本である。
英国の貴族、フィリアス・フォッグが八〇日間で世界一周をしてから二十二年。世界は確実に狭くなり、一八八九年には米国の新聞記者であるネリー・ブライが僅か七十二日間で世界を一周したし、旅行代理店であるトマス・クック社はもう何度も世界一周ツアーを主催している。
今は、金さえあれば、海を渡り、陸を超えて簡単に世界の果てへ行ける時代なのだ。暇と金を持て余した者は、挙って異国へ旅に出る。人気のある旅行先は、地の果て海の果てと呼ばれる極東や印度である。冒険よりも物見遊山の色が濃い、そんな旅でスリルを楽しむのが最近の流行だった。
婦人方によるタラップの渋滞が解消された後を、悠然とした仕草で降りてくる紳士も、おそらくは、そんな海外旅行から戻った一人だろう。仕立ての良いモーニング・コートとトップハットを身につけたその男は、端から見ても酷く上機嫌そうだった。下手な鼻歌を歌いながら、スキップするような軽い足取りで地上へ向かう。手にした拵えの良いステッキは、藤ではなくオニキス製で、それだけで彼の身分や財力の高さが窺えた。目でも悪いのか、或いは単なるファッションかはわからないが、色の濃い保護眼鏡が印象的だ。
しかし、一方で、年齢の方はよくわからない。颯爽としたその姿は三十代になったばかりの青年にも見えるし、五十代半ばの気力に満ちた壮年のようにも思える。保護眼鏡で目の色は見えないが、それ以外の表情は酷くにこやかだ。生命を謳歌するような、そんな精気に満ちていた。
紳士は、タラップをリズミカルに降りながら、背後に控える、大きな旅行鞄を二つも両手に提げた長身の青年に声を掛ける。
「帰ってきたねぇ、英国に。倫敦塔は、今も烏がいっぱいかな?」
それは表情と同じく、楽しくて仕方がないという風な声だった。
けれどそれとは対照的に、話し掛けられた青年の方は口を真一文字に結んだまま何も答えない。ケンブリッジ・ハットを目深に被っているため、表情は何も窺えないが、そこから覗く白金の髪が妙に目立った。鈍色のディットーズにフォアインハンド・タイという組み合わせから、この青年の身分が高くなく、おそらくは紳士の使用人であろうことがわかる。
紳士は青年に無視されても特に気分を害した様子はない。愉快そうに言った。
「まったく、まだ拗ねてるのかい、キミは。そもそも、良心の呵責なんてものは幻だよ? 罰が無ければ罪も無いのと同じだろ?」
青年は何も言わない。その姿は、拗ねている姿とは最も遠いところにあるようだが、しかし、紳士はそれを無視する。
「ほんと、拗ねたいのは私の方だよ。帰国早々、こんな夜中にこれからウィンザーくんだりまで出かけていって、あのハンプティ・ダンプティのご機嫌取りをしなくちゃいけないんだ。ブラウン君はほんとまぁ、良くやってたよ。丹毒で亡くならなかったら、幾つまであの婆さんの閨の相手をしてたんだろうね」
タラップの最後の一段を降り、英国の地を踏みながら、紳士は機嫌良さそうに暴言を吐く。後に続く青年もタラップから地面に足を付けた。
紳士は足取りも軽く、後に続く青年が大きな旅行鞄を二つも提げていることなどまるで無視して、船からの荷物の積み卸しを行っている倉庫区へと向かう。一方で青年も、特に鞄の重さを感じている気配もなく、悠々とした足取りで彼の後ろをついていく。
彼等が向かうのは、船の乗客の大半が向かう入国管理局ではない。その隣にある、荷物の積み卸しを行う港の税関だ。眠そうな顔の係員に話し掛け、数枚の書類にサインをしてから半券を受け取ると、二人はそのまま税関の裏手にある、積み荷が一時的に収められる倉庫区へ足を踏み入れた。
倉庫区は、所々に立っているガス燈しか明かりがない。空には半月が浮かんでいるが、光源には不十分だ。
闇の中にもかかわらず、相変わらず陽気な口調で、紳士が呟く。
「さて、一足先に送った『荷物』はどこかな? 予定より早く着きすぎて、奥の方へ深仕舞いしちゃったって、さっきの職員は言ってたけどね……」
薄暗い明かりを頼りに倉庫群の狭い通りを歩きながら、あからさまにきょろきょろと、紳士が周囲を大仰に見回す。青年は何も言わず、ただ、顔を伏せるようにしてその後ろをついて行くのみだ。
広大な倉庫街を二百碼も進むうち、ふと、初めて青年が口を開いた。低い声で、ぶっきらぼうに言う。
「……気をつけろ。尾行けられている」
低いというより、不機嫌極まりない声だ。声を掛けられた紳士は、振り向きもせずに面白そうに言う。
「ふーん。いつからだい?」
「たった今、つまりはこの倉庫群の入り口からだ。気配は十二」
青年の言葉に、紳士が愉快そうに笑った。不穏なことを告げられたのに、全く意に介さぬようだ。
「へぇ。相変わらずこの国は物騒だね。一応ここは、入管の管理下に在るはずなのに。まぁ、こんな夜中なら仕方が無いか」
陽気に呟く紳士に、青年が呆れたように息を吐く。勝手にしろ、と言わんばかりに、不機嫌そうに頭を振った。
一方の紳士は、鼻歌交じりで足を進める。
道でも間違えたのか、何もない突き当たりで立ち止まった。コツン、と一つ、オニキス製の杖が鳴る。
その瞬間、周りの建物から、わらわらと屈強な男共が現れた。最近流行の観相学的に言えば、全員が粗野で貧相な悪人の顔つきであり、身なりは汚い。
彼等は、港に常駐する荷運びの人足だった。どうやら相当量を飲んでいるらしく、皆一様に赤ら顔で、吐く息も酒臭い。微かな腐臭も感じることから、ジン中毒に片足を突っ込んでいるのだろうか。
各々が棒きれやナイフを手にしているところをみると、とてもまともな労働者の類いにはとても見えない。
荷運びの人足は、大抵が犯罪者と紙一重の職業だ。真面目な労働者も勿論いるが、問題ばかり起こすので船を追われた水夫崩れもまた多い。そういった連中が真面目に荷物の積み卸しを行う訳もなく、迷い込んできた旅行者を恐喝したり、荷を奪ったりすることでその日の糧を得るような輩ばかりだ。殺人だって厭わない。彼等にとっては、上等な服を着て、更には重そうな旅行鞄を持った従者を連れた紳士など、鴨が葱を背負ってきたようなものだろう。
国際港の税関の倉庫群という場所は、意外にもごろつき達が屯する犯罪の温床地域でもあった。政府の組織の建物が直ぐ側にあるということもあり、なんとなく来訪者が油断してしまうのだ。しかも、べらぼうに広いため、警備の目が行き届かない場所でもある。一種の盲点でもあろうか。そんな場所に、夜も遅くに迷い込んだ身なりの良い二人組など、格好の獲物だろう。
哀れな被害者の死体だのなんだのは、直ぐ側の海に沈めてしまえば良いのだから、証拠も何もあったものではない。まさに強盗にはおあつらえ向きの場所だった。ごろつき達は手慣れたもので、たちまちのうちに逃げ場を塞ぐように被害者候補の二人を取り囲む。
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