Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

39

公開日時: 2020年10月14日(水) 18:00
更新日時: 2021年1月15日(金) 15:33
文字数:3,521


 時計の針は、夜の七時を過ぎている。


 その部屋は、ある意味で奇妙すぎるほど奇妙だった。部屋の作りは豪華である。ルーベンスの『パリスの選択』が飾られた壁は勿論、ふかふかの緋の絨毯も、天井にある金銀で贅をこらしたシャンデリアも見事な物だ。


 しかし、一方で、配管やケーブル、水蒸気のパイプが剥き出しで転がり、そこだけ見れば、まるで工場のような有様だった。制作者による様々な注意書きが落書きのようにあちらこちらに刻まれて、絨毯が剥がされている一角まであるほどだ。巨大な汽罐や汽罐の唸る音、そして蒸気が漏れる音で、立っているだけで足の裏に細かな振動を感じる。


 スペイン天才画家ベラスケスは、皇太子の間をアトリエにすることを許されたというが、上流貴族の応接室を工房に改造したらこんな感じなのかも知れない。


 そんな矛盾した空間の部屋の中、ポケットに手を突っ込んで、静かに佇む人影があった。フィリアス・フォッグ二世である。

 彼はただ、特に身動きすることもなく、不敵な笑みを浮かべながら、奥にある分厚い扉を見つめていた。パイプやケーブルの大半は、殆どがその扉の向こうに繋がっているらしい。そのせいで、まるで蛸のように鋼鉄の足を生やす風に見える無骨なその扉は、まるで地獄の門のようだった。


 実際そこは地獄の門で、この先には『死者』がいるのだと言うことを知るものは殆どいない。フォッグ二世は、それを知る、数少ない人間の一人であった。


 やがて、蒸気の力を借りて重い扉が向こう側からゆっくりと開く。


 その中から出てきたのは、幾つものケーブルやチューブを引き摺った車椅子に乗る、二十代後半と思しき青年と、それを押す壮年の紳士だ。


 車椅子の印象のせいか、青年には些か弱々しい雰囲気があるのだが、しかし、それを覆すかのような気品と高貴な血の存在感があった。


 フォッグ二世も貴公子の面影はあるのだが、青年に比べれば、威厳や血の気配が断然薄い。彼等の後ろの部屋には、ぎっしりと何かの巨大な機関が詰め込まれているのが見える。その中を悠然と歩き回る何者かが居るのはわかるが、流石に距離がありすぎて、詳細まではわからない。


 蒸気の排気と噛み合う歯車の音を従えて、車椅子が止まる。車椅子の青年が、にこっと笑う。


 それと同時に、フォッグ二世はポケットから両手を取りだし、恭しく片膝をついた。この青年にしては本当に珍しく、真摯な声で挨拶をする。


「お久しぶりです、殿下。ご機嫌はいかがですか?」


「悪くない、と言えば嘘になるかも知れないな。だが、そう思うのも事実だよ、フィリアス。住めば都とはよく言ったものだね」


 青年の声は至極落ち着いている。教養の高さを示すように、理性的な笑みを浮かべて言った。


「倫敦塔から烏が消えないように見張る役目は退屈だが、流石に二年もすれば、いろいろと愉しいことも増えてくる。何も知らない弟には申し訳ないが、これで、ようやく《ブラウン婦人》の手から父を救える立場になれた。死者を殺すことは誰にも出来ないが、しかし、私はここに居るし、そして、君もここに居る」


 その言葉に、フォッグ二世が静かに頭を垂れる。


「ええ。私は最後まで貴方の忠実なしもべでありますとも、殿下」


 慇懃なその言葉に、青年が少し笑った。


「まったく、死んでからこんな忠実な部下が手に入るとは思わなかったよ。『生きていた』頃は何もかも自由にならず、また、ハノーヴァーの呪いに苦しむ人生だったが、それを思えば、死んでおいて良かったのかもしれないね。まぁ、精神病院内で梅毒で狂死、という噂には閉口するけど」


「貴方の汚名は、必ず私が晴らせてみせます。あと少しで、例の事件の真相を暴ける筈です」


 真剣なフォッグ二世の言葉に、青年が笑みを浮かべたままで首を振る。青年が座る車椅子からは絶えず歯車と蒸気の音がするが、その音が更に彼の声を際立たせる。


「そんな無理をしなくて良いよ、フィリアス。特に、《ブラウン婦人》が生きている間はね。私は既にこの世には居ないはずの人間なのだし、死者の名誉を回復したところでね、一文の得にもならないよ」


「しかし……」


「今日、君を呼んだのは、こんな話をするためじゃない。また新しく、頼まれて欲しい事が出来てしまってね。まったく、君には迷惑ばかりかけてしまうが、頼まれてくれるかい?」


 青年の言葉に、跪いたままフォッグ二世が首肯する。


「勿論ですよ、殿下」


「ありがとう、フィリアス。では、ノウルズ、フィリアスに彼を紹介してくれないか」


 青年の言葉に、車椅子を押していた壮年の紳士が恭しく頷いた。低い声で言う。


「さて、フォッグ卿。君をわざわざ呼び出したのは他でもない。黒の王子のおっしゃるとおり、君に会わせたい人が居るのだ。長い話になるからね、まずは立ちあがってくれないか」


 ノウルズの言葉に、フォッグ二世は無駄の無い動作で立ちあがる。その動きは奇妙にも俊敏で、幾ら若者であるとはいえ、ただの実業家のものとは思えなかった。


 フォッグ二世が立ちあがったのを確認し、ノウルズが言う。


「今回君に会わせたいのは、日本からの客人だ。少しばかり特殊な立場の方なので、本名は明かせない。ケン、とだけ呼んでくれ」

 その言葉に、フォッグ二世が面白そうな顔になった。


「日本からの客人ですって? それは珍しいですね。特殊な立場というのは、密使か何かですか?」


 青年に対する時とは打って変わって、酷く愉快そうな顔をするフォッグ二世に、ノウルズが苦笑する。


「似たようなものだな。尤も、英国領事館書記であったトーマス・マクラチ氏の紹介だから、身元は確かだ。旧政府の人間だが、皇帝の覚えもめでたい御仁であるとか。そういうわけで、この国でのかりそめの身分は、グラッドストン卿の護衛ということになる。今日は特別に護衛を他者に任せ、ここまでご足労頂いた。――どうぞ、ミスタ・ケン」


 ノウルズの言葉と同時に、一人の東洋人の老紳士が扉の向こうから顔を出す。足音どころか、一歩踏み出す気配もなかった。気がつけば、車椅子の青年の右斜め後ろ、ノウルズの隣に立っている。そのあまりに滑らかな動きに、フォッグ二世は僅かに眼を見開いた。警戒したというのもあるが、彼が身に纏う雰囲気が、明らかに常人のものとは異なるからだ。


 年の頃は六十才を過ぎた辺りか。白髪交じりの髪は少し長めで、首の後ろで括られている。眼光鋭いその目付きと、意志の強そうな口許が印象的だった。


 普通、東洋人のフロックコートとトップハットの姿はどうしても着慣れなさが滲む物だが、彼に関してはそんなところが微塵もなかった。東洋人に洋装が似合わないのは、華奢な体格と低い背のせいであるが、この老紳士は、がっしりとした体格であり、且つ、東洋人には珍しく、一八〇センチをゆうに超える長身だ。隣にいるノウルズの方がずっと小さい。前首相、グラッドストンの護衛をしているというのも頷ける。


 老紳士が静かに口を開いた。


「初めまして。本来なら、きちんと氏名を名乗るべきなのだが、少々複雑な事情があり、この国では本名は名乗れぬようになっている。まぁ、名前など個人を識別できれば良い物であるしな」


 少しばかり仏蘭西訛りがあるが、実に滑らかな英語だった。日本人は大体が妙な癖のある英語を話すものという偏見のあったフォッグ二世が、思わず刮目するほどの滑らかさだ。


 敬語ではなく、飽くまでも対等な口調であると言うことに、このケンと名乗る老紳士がどういう立場かをフォッグ二世は素早く察する。なるほど、これは一筋縄ではいかない男だ。


 そんなフォッグ二世の内心を知ってか知らずか、ノウルズは静かに双方を双方へと紹介する。

「ケン殿は、日本政府から派遣された代理人だ。公式ではなく、非公式に派遣されているため、普通の代理人エージェントではなく、秘密情報員エージェントと言うことになる。それ故、少々立場が特殊な方だ」


「特殊、というと?」


 フォッグ二世の問いに答えたのは車椅子の青年だ。にこにこと、愉しそうに言う。


「簡単に言えば、彼はね、私と同じくもうこの世には居ないとされている人間なんだよ。公式の記録では、今年の九月十一日に亡くなっている御仁なんだ」


 死人の王子に死人の代理人が会いに来るのは面白いと、青年は明るく笑う。そんな青年の声に僅かに眉を寄せ、ノウルズが言った。


「もちろんここにいらっしゃると言うことは、彼のその死は偽装であるのだがね。さて、ケン殿。彼が先ほどお話ししたフォッグ卿です。年は若いが、こう見えてかなりの切れ者で度胸もある。きっと貴方の良き協力者になってくれるでしょう」


 その言葉に、ケンとフォッグ二世が同時に深く頷いた。握手をしあうような真似はしないが、しかし、視線を交わすことでその代わりとする

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