書籍販売部門に向かった老紳士は、貸本部門の扉を出る直前に一度だけ振り返る。本棚の前で見つめ合う、少女と青年の姿を視界に認め、ほんの少しだけ笑って言った。
「ああ、やはり忠告は野暮だったな。あれだけ素直で可愛い子なのだ、それはまぁ、周りの男共が放っておかんか」
その言葉に、傍らにいた東洋人の老紳士が振り返る。首を傾げるようにして言った。
「私の目には、あれは恋人と言うよりも仲の良い兄妹か何かのようにも思えるがね。しかし、変わった雰囲気の娘だったな。何というか、勝手にこちら側の事情を話したくなるような、そう言う娘だ」
白人の老紳士が同意するように深く頷く。
「ヴァン・ダイクのチャールズ一世図を見た時のような感覚に近いな。持って生まれた素養というか、総てを見透かす目というか、この人には、ありのままを告げねばならんというような、そう言う畏怖が微かにある。ああいう子は、探偵や警官の中にたまにいるよ。なんというか、あまりにこちらを見通すような目を持っているから、それに引き込まれて色々弁解したくなって喋ってしまう。あの娘が男だったら、良い警官か探偵になれるのだろうが、まぁ女性の身では、無理だろうな」
近年、女性解放運動は盛んではあるが、未だにそれらは認められない。女王が統治する国であっても、女性の地位は低いのだ。
二人から視線を外し、東洋人の老紳士が言う。
「あの青年も、ただ者ではないぞ。私の間合いに気付きながらも、臆せず入り込むとはなかなかだ。弟子に取ったら次朗吉をも超えるかもしれん」
「ケン殿の眼鏡にかなうなら相当のものだな。しかし、『恋せよ、汝の心の猶少なく、汝の血の猶熱き間に』という句の通り、恋する乙女は本当に愛らしい。あの子達にような若い世代には、希望だけを残しておいてやるべきなのに、しかし我等が残せるのは数々の文化の屍と、そこに立つ憎しみだけだ。まったく不甲斐ない」
アンデルセンの「即興詩人」を引きながらのその言葉に、ケンと呼ばれた東洋人が、ほんの僅かに肩を竦めた。
「我が国でもそれは変わらん。権力の蜜は僅かであるのに、互いにそれを欲するあまり、革命軍同士が争って、革命に対する反乱まで起こる始末だ。田舎者はそういう所が非常にいかんな」
幾分苦々しいように告げるケンに、老紳士が首を振る。
「領土を貪ることは全人類の呪いでもある。愚策を強行し、いざ事が済めば、こんな筈ではなかったと臍を噛むのが世の習いだ。彼女のそれを矯正できなかった以上、せめて少しでも長生きをし、奴らの愚行の歯止めとなるしかあるまいて」
老紳士は苦く笑った。独り言のように小さく続ける。
「本来君主というものは、象徴的役割に限定されるべきなのだ。彼女は一度思い込んだら考えを改める事はしない。彼女は息子を出来損ないと信じているが、なかなかどうして、彼は父君の血を濃く継いでいる。派手な女遊びは治らんだろうが、外交的手腕は相当なものだ。一方で彼女の方は、表向きは聡明な風を気取っているが、メルバーン子爵やディズレーリ伯爵などの、見栄え良く、我侭が通る男が現れたらすぐにそちらに傾倒する。自分が操っていると信じ込んで、その逆、男に操られる型の典型だ。若い頃は兎も角、老いてからは益々その傾向は強くなり、今では目も当てられない。一刻も早く、彼女を退位させ、皇太子に後を継がせるべきなのだがな……」
溜息のように嘆く老紳士を窘めるようにケンが言った。
「君主の批判は外ではやめておいた方が良いな、グラッドストン卿。壁に耳あり障子に目あり、何処で誰が聞いているか解らんぞ」
素っ気ない忠告に、グラッドストンと呼ばれた老紳士が笑ったまま緩やかに首を振る。
「誰に聞かれても構わんよ。私はそれほど長生きをする気もない。今回の日本からの依頼が最後の仕事になるだろう。それさえ果たせれば、あとはもう、思い残すことは特にはない」
そう告げた後、グラッドストンは嘆くような声で小さく言った。
「否、思い残した事は山ほどあるが、一つくらいは罪を精算したいというのが本音だろうか。私が生きている間、せめて、愚かしい戦争を一つくらいは止めておきたい。まったくこの国は本当に戦争ばかりが好きで困るな」
溜息のように告げられたそれに、ケンは静かに首肯する。明らかにただの老人ではない、まるで野生の獣のような目で言う。
「そうだな。私は『あれ』さえ見つければ、特にすることもない身の上だ。貴公の護衛くらいは果たせるだろう。要人の護衛はお手の物だ。夜道で背後を気にする必要は無いから、思い切りやるが良い」
その言葉に、グラッドストンが人の悪い笑みを浮かべた。それは、ただの老紳士の目ではない。海千山千、まさしく喰えない男の顔だった。
メアリは結局、あの老人に譲られた本の他には、イザベラ・バード女史の記した日本旅行記と、ルイ・ジャコリオが記した『印度騎行』の二冊を借りることにした。
なんとなく、先ほどの紳士の言葉が引っかかっていたからである。文化の死とは、一体どういうことなのだろう。
貸し出しカウンターは混んでいた。順番を待つ間、メアリは先ほどの紳士の話をウィリアムに訊いてみる。
果たしてウィリアムは、茫とした目のままで答えてくれた。
「文化の死、というのはいろいろな意味がある。文化というのは、その紳士が言うとおり、継承する者がいなくなれば途絶えてしまうものだから」
そう言うとウィリアムは、少し考えるふうにする。暫くしてから口を開いた。
「異国の話はわかりにくいから、この国の話をしよう。君も、ガイ・フォークスの話は知っているだろう?」
ガイ・フォークスの話を知らない子供は、英国にはいないだろう。つい先月の五日にも、英国ではガイ・フォークス・ディという祭りがあり、子供達がぼろ布で作った人形を引きずり回して夜のかがり火で燃やしていた。イーストエンドでも同じような光景は見られて、花火と共に冬の風物詩でもある。
今からおおよそ三百年前、ジェイムズ一世の御代の事。一六〇五年十一月五日、議会が開催される数日前に、さる密告があった。
それは、反乱分子が国会議事堂に大量の爆薬を仕掛け、王と皇太子、そして議員達を暗殺しようとしているというものだった。半信半疑で議事堂の地下を調べてみたところ、密告通り、火薬の詰まった三十六もの大樽と、その側で見張りをしていた男を発見した。
その男こそガイ・フォークスである。
彼がジェイムズ一世の前に引っ立てられ、跪かされながらも凄まじい形相で王を睨み付けたシーンを描いたのが、ジョン・ギルバートの有名な『ジェイムズ一世前のガイ・フォークス』という水彩画だ。
「何故、ガイ・フォークス達がジェイムズ一世を暗殺しようとしたかといえば、諸説ある。ジェイムズ一世のカソリックへの烈しい弾圧に耐えかね、彼を殺してカソリックの王を立てようとしたからだと言う説が尤も有名だけれど、他にも有力視されている説がある。それは、ジェイムズ一世が魔女狩りを強く推奨した為、それを止めようとしたという説だ」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!