迷路

仕事の仲間と飲んでいたはずだ。
正樹は汗ばむ身体を拭いたかったが、
持っているものは何もない。

ここは…なんだ？

トイレで用を足して、出てきたとき…
酒に足を取られて倒れそうになった。
自分を支えるために、壁に手をついた。

それは覚えている。

だが、これはなんだ？

正樹の眼前に広がっているのは…
どこかの会社の地下オフィスのような、
それでいて備品等はは一切ないのだ。

これから入るのか…
それとも逃げ出した後なのか。

しかし…あちこちの照明は明滅しており、
壁紙もクリーム色というには煤けた感じであり、
入居前の感じはあまりしない。

しかも規則性もなく部屋が連続して、
居心地の悪い空間だ…

正樹は着ているスーツのポケットを
確認した。

今持っているのはガムと携帯と財布…

携帯は圏外になっていた。
Wi-Fiもないようだ。

いったい此処はなんなのだろう？
見回しても何もない。
煤けた壁と、所々点滅する照明があるだけの
謎の部屋だ。

自分がどうしてここに来たのかもよくわからない。
見回しても出入口らしきものはないのだ…
拐われた？
何故自分が？
何のために？

財布はある…
正樹は尻のポケットから長財布を取り出す。

現金もカード類も無くなっていない。
金銭目当てで誘拐された訳では無いみたいだ…

いつまで此処にいればいいのか？

しばらく考えてから、
正樹は出入口をさがす事にした。

携帯を確認すると圏外だが、
時刻は夜中の1時半ちょっと過ぎ…
飲んでたのは20時くらいだから、
結構な時間、伸びてたわけだ。

正樹は歩き出した。
照明の点滅…
良く分からないジジジ…という音。

角を曲がっても、廊下を進んでも…
目に入るのは同じような景色だ。
それでも正樹は進んだが、
やがて気がついた。

広すぎるのだ。
退去したオフィスとか、
これから入居するオフィスとか、
そういう問題ではない。

ポケットから携帯をだして確認する。

2時15分過ぎ…

間違いなく広すぎる。
一社二社では使い切れない広さ。
しかし、区画を区切る扉は無く、
目隠し壁のような緩やかな仕切りで
同じような空間だけが続く。

廊下もそうだ。

これだけの広さなのにドアが1枚もない。
窓も1枚もないのだ。
平たく言えば部屋がないのだ。
広大な一部屋と言ってもいい。

本来存在するべき誘導灯も見当たらない。
空調の吹き出しや吸い込みも見当たらない。
同じような景色が続くので、
いま自分が何処にいるのかも判らないのだ。

此処は…なんだ？

歩きながら正樹は考える…
だが結論は出ない。
自分はどうやって此処に来た？

何故？

眼の前を長い廊下が続く。
照明の間隔通りに明るく、暗く。
ただ、それだけだ。
まるで病院のような…

歩き続けていると1つ気がついた事がある。
廊下を歩いていくと、
照明と照明との間の暗がりの壁に穴が
空いているのだ…

ふと気になって、
正樹は次の穴を覗いてみようと考えた。
もしかして、外壁側なら外が見えるかも…

照明の谷間に入る。
よく見れば窓のような長方形の穴がある。
外に繋がっているなら、
灯りくらい差しそうだが…

淡い期待と共に、正樹はその穴を覗いた。

だが、穴の向こうも同じ景色が続いている
だけだったのだ。

だが、正樹が落胆することは出来なかった。

それを見てしまったからだ。

同じような廊下の景色の真ん中、
奥ほどの照明の真下でそれは光っていた。

髭を生やしたお面だ…
両眼が爛々と白く光る。
こちらを向いて、
チカチカと不規則に点滅している。

人が被っているのか？

正樹は人だと思い声を掛けようとした。
その刹那だった。

廊下を疾走するような速さ。
けたたましい笑い声。

それは正樹が覗いた穴の向こうに
一瞬で張り付いた。

その勢いに正樹は穴から仰け反った。

笑い声が止むと、
ゴリッ、ゴリッと何かを強烈に擦る音がする。

嫌だ…みたくない。
だってその音は…

正樹は走り出した、やみくもに。
最初の角を曲がるとき、
見てしまったのだ。

壁に空いた穴から
そのお面が飛び出してくるのを。

笑い声だ。
笑い声が追いかけて来る。

とてつもない廊下の直線を疾走する。

どこまでも続く曲がり角。
不規則な廊下とも部屋とも言えない空間。
走っても走っても隠れる場所もない…

正樹はだんだんと息があがってくる。
だが、聞こえるのだ…

追いかけて来る笑い声が。

追い付かれればどうなるのか？
想像もつかない恐怖。

本当にこれは現実なのか？
実は飲み屋で酔い潰れてみている
夢なのではないか？

気がつけばトボトボと歩いている。
笑い声は遠く、小さくなった気がする。

世界は変わらずくすんだ色で、
照明がジリジリと鳴っているが…
少し入り組んだ場所にでた。

壁が入り組んで、
ちょっと休めそうだ。

正樹はフラフラと入り組んだ壁の向こうにいき、
そこでヘタリこんだ。
大きく息を吸って、深呼吸する。

壁に寄りかかって深い溜め息をついた。

どうしたらいいのだろう？

その時だった。
胸のポケットに入れてあったスマホが
けたたましく鳴るのだ。

全身に冷水を浴びたようになり、
一瞬訳が判らない。

廊下に呼び出し音が鳴り響く。

我に返って急いでスマホを止めた。

…気が付かれてしまったのか？

震える指でスマホをマナーモードにする。
会社帰りだったから、
マナーモードにしてなかったのが悔やまれる。

息を潜めているが、
笑い声が接近してくるようには感じない。

すると、今度はマナーモードで着信した。
こういう時、バイブレーションの音も
大きく聞こえてしまう。

画面をみてもアンテナは立っていない。
着信番号も非通知表示だ。

正樹は電話にでた。

「もしもし…」

雑音が聞こえる、そして人の声が大きくなった。

「返事はしないで」

正樹はスマホを当てたままコクコクと頷いた。

「そこを出たら右に真っ直ぐ走って」

電話の声は若い男のような、
年配のような変な声だ。

「窓がある、その窓の前まで走るんだ」

「運が良ければ助かる」

そう言って電話は切れた。

窓？
今まで走り回って、穴はあっても窓は無かった。
どうしたらいい？
この電話を信じていいのか？

その時だった。
笑い声が近づいてくる…
正樹は壁の暗がりに張り付いた。

この壁の入り組んだ隙間に出入り口は
ひとつしかない。

みつかればどうなるか…

大体あれはなんなんだ？　能面？

なんでそんなものが浮いて、
廊下を徘徊してるんだ？

電話はそこを出たら右にと言っていた。
能面は笑いながら廊下を曲がり角まで進んで
そして角を曲がって行った。

運が良ければ助かる？

正樹は躊躇した。
だが…いつまでも此処にはいられない。
能面が何故浮いて？
追いつかれたら？
このままここに居て、逃げられる？

正樹は考えるのを諦めた。
これが夢でないのなら…
息を整えると、隠れていた隙間から飛び出す。
そして廊下を右に全速力で走った。

同じような景色の中、
遠く突き当りに大きな四角いものが見える。

「あれか！」

思わず言葉に出た。
それを待っていたかのように、
背後に笑い声が響く。

通り過ぎた脇から、
能面が滑り出してきたのだ。

窓はまだ遠い。
正樹の胸は悲鳴を上げている。

こんなことなら運動しておけば良かった…

もう、息をするのも苦しい。

あと少し。

黒い四角はやはり窓で…
どこかの景色が見える。
そして、電話の声の主であろう、
若い男が立っていた。

「頼む、助けてくれ！」

正樹は叫んだ。
そして大きく腕を伸ばす。

だが、男は残念そうな顔をすると…
クルリと背を向けて離れていく。

「行かないでくれ！」

正樹が窓に取り付いた時、
急に視界が狭まってしまった。

まるでお面の穴から外を覗いているように…

迷路　完