ファルヴァニアの地下に張り巡らされた下水道。
主神到来以前の遺跡を流用したものともされており、その全貌を把握している者は誰もいないと言われている。
それは、下水道に棲み着いているダイアラットを駆除して糊口を凌いでいたアベルも同じ。そもそも、あまりにも広すぎて、すべてを知ろうなどとは思いもしなかった。
どこまでも続いていく世界をすべて記述しようなどと、常人が思いつかないのと同じように。
けれど、今、また、アベルは下水道を闊歩していた。
ダイアラットを駆除していたときと違うのは、一人ではないということ。
そして、確たる目的があることだった。
『ご主人様落ち着いてる』
『ああ。落ち着きもするぜ』
コフィンローゼスを引きずりながら、アベルは念話で答えた。
吸血鬼となった今や、明かりのない下水道でも支障はない。こちらを恐れてか、ダイアラットも近づいてこようとはしなかった。
そして、クラリッサの根回しによって、他の冒険者もいない。
アベルとスーシャの二人きり。
『いい年した大人だからな』
『ナイスジョーク お陰でスーシャの緊張がほぐれた』
『……だろう?』
もちろん本気で言ったのだが、アベルは反論したりしなかった。
いい年をした大人なので。
『落ち着いてるのは、エルミアたちを信じることに決めたからだぜ』
『大丈夫クルィクがいるから狩人の一人や二人どうとでもなる』
身も蓋もない、スーシャの言葉。
同意する部分がなくもなかったが、アベルは沈黙で答えた。
いい年をした大人なので。
しかし、アベルがエルミアたちの提案を最終的に受け入れられたのは、クルィクの存在が決め手だった。これは、間違いない事実だ。
アベルは、黙ったままコフィンローゼスを引きずり、まずは、マリーベルと初めて出会った場所を目指した。
吸血鬼に、されたとき――いや、なったときの記憶はない。
だが、あの日、どの辺りでダイアラットを狩っていたかは分かる。
恐らく、シャークラーケンと遭遇して逃げ惑ったのだろうが、そんなに遠くまで離れられたとは思えない。というよりも、出会い頭に即死しなかったのが不思議なぐらい。
とにかく、この辺りなどアベルにとっては庭のようなもの。
特に集中力も必要とせず、意識は、二手に分かれることになった話し合いの場面へと飛ぶ。
全員で狩人に対処できれば確実だっただろうが、その分、マリーベルの捜索が遅れてしまう。
かといって、狩人を無視して探すことに注力しては、マリーベルの存在まで知らせるようなもの。
そこで、エルミアが自ら囮を志願した。
ルシェルの幻術系の呪文で姿形を変えた態で、アベルの代わりになると言ったのだ。
エルミアが吸血鬼となった今なら、それが可能だった。
いわば、戦力の分割。
効率的だが、エルミアたちを危険にさらしかねない作戦。それは、アベルからは絶対に出こない提案だった。
自らがいないところでエルミアが死にかけ、マリーベルが行方不明になった直後なのだから、なおさら。
『ところでご主人様』
『なんだ?』
『《霊覚》を使わないのも奥様方を信じてるから?』
『奥様方は止めろよ。前にも言ったろ?』
『止めろというのはやれってことなのでは???
やはり、エルミアを念話ネットワークに参加させるのは悪い結果しか招きそうにない。
アベルは危険性を噛みしめつつ、流水を避けながら下水道を歩み続ける。
『《霊覚》は、完全に手がかりがなくなってから使う予定だ』
『それは結局のところやっぱり信じてるから?』
『食いついたら放さねえなぁ』
『照れる』
褒めていない。
褒めていないが、否定すればスーシャを喜ばせるだけ。
『俺が、エルミアとルシェルとクラリッサを信じないと、あっちも俺のことを信じてくれない。当たり前と言えば当たり前だけどな』
諦めの境地で、アベルは本音を口にした。
もちろん、今でも不安は消えてない。
計画通りなら、三人とクルィクで狩人と対峙しているはずだ。
イスタス神に倣って最初は話し合い――説得から入るということにはなっているが、望み薄だろう。
その結果、訪れるのは、決裂と戦闘。
目を離した隙に、エルミアが瀕死の重傷を負ったときと同じことが起こるのではないか。そんな心配は、今でもある。
エルミア、ルシェル、クラリッサ。この三人が特別なのか。それとも、多少は親交がある相手ならみんなそうなのか。
それはアベルにも分からない。
だが、アベルもいい年をした大人だ。四六時中一緒にいて、守り続けるなんてことが不可能なのは、理解している。
それゆえ、信頼だ。
信頼して、狩人のことを任せる。
信頼されて、マリーベルのことを請け負う。
不健全な関係からの脱却を目指すならば、まずは、ここから。
『甘い』
しかし、スーシャに一言で切り捨てられた。
『はっきり言いやがって』
『でも甘いご主人様好き』
アベルは、思わず足を止めた。
本当に不意打ち過ぎて、下水道脇の道から落っこちそうになる。
それくらい、衝撃的だった。
『そのリアクションは傷つくし最高』
『普段がそんなだから、びっくりするんだろうが』
スーシャの台詞回しは、まるでヴェルミリオ神が描く劇のようだった。まあ、そのあとはいつものスーシャだったので驚く程度で済んだのだが。
「それより、そろそろあの日にネズミを狩ってた場所だな……」
ダイアラットの駆除といっても、巣を根こそぎ殲滅しろとか、一回で数百匹も始末しろとか、そんな無茶な依頼ではない。
ただ、相手も一般人でも倒せるとはいえモンスターである。単純に罠を張ってもすぐに効果はなくなるため、日によって狩り場を変えていた。
記憶を頼りに、角を曲がったところ――
「まさか……」
――数メートル先に、見覚えのあるモンスターがいた。
無機質な。感情のこもらぬ黒い瞳。
透き通るような白い体。
そして、うねうねと動く十本の足と、その先に生えるサメの頭部。
シャークラーケン。
『ご主人様お知り合い?』
スーシャからの暢気な念話。
そちらに気を取られ、結果として、精神の均衡が保たれた。
「お知り合いというか……、どちらかというと、親の仇じゃねえかな?」
『マリーがイカサメに殺されたなんて……』
「違えよ。仇なのは、俺だよ、俺」
シャークラーケン。
アベルが倒したはずの、封印魔獣。
それよりも、二回りほど小さな。ミニ・シャークラーケンとでも呼ぶべき存在が、アベルに気付き、無機質な黒い瞳を向けてきた。
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