「そうだ。家を買おう」
安宿のベッドで寝返りを打っていたアベルが、唐突に起き上がった。
吸血鬼となった肉体は、急な動きに驚いて痛みという抗議をすることもない。関節も軋まない。
ただ、無意識に首や肩を回してしまうことはある。癖で。
いくつかの呪いはあるが、改善された点もあり、そこは感謝しても良かった。だが、吸血鬼化させた張本人から、リアクションがないのは許せなかった。
「……なんか反応しろよ」
「そうじゃな……。アベルらしく唐突で計画性はないが、結論自体は悪くないとは思うぞ。悪くは」
「前半部分必要だったかなぁ?」
宙にぷかぷかと浮きながら、ルシェルに借りた本――芸術神ヴェルミリオの手になる『亡国の姫騎士と忠義の従士第三幕』――から目を離さず、マリーベルは言う。
「悪くはないと言うておろうが。こんな場所では、落ち着いて本も読めぬしの」
「じゃあ、地下で大人しくしてろよ」
マリーベル・デュドネ。
アベルを吸血鬼化させた、血の親。
その絆を利用して、人形のような小さな体でアベルの周囲に現れた前世界より生ける者。
マリーベルの肌は病的なまでに白く、瞳は妖しいまでに赤い。作り物めいた美しさだが、しかし、人工物ではありえない深淵を感じさせる。
夜より黒い髪はツインテールに結ばれ、闇のように深い漆黒のドレスと調和していた。
人の枠を外れた美には、見慣れた今でも、息を飲むことがある。
だが、うだつの上がらない冒険者の部屋にいると、一気に犯罪臭が増すのだった。
「嫌じゃ。なんのために、妥協して汝を吸血鬼化したと思っておるのか」
「うん。分かってるけど、そこはもう少しごまかす努力をしような? 人助けをしたいって設定も忘れるなよ」
本体は地下に封印されているようなのだが、どういう状況なのか今ひとつ分からない。吸血鬼らしく、棺の中で眠っているのだろうか。
しかも、どうやら、吸血鬼だけでなくシャークラーケンのような危険なモンスターも一緒に封印されているようなのだ。
やはり、どういう状況なのか分からない。
アベルは考えるのを止めた。疑問や問題を途中で放り出すのは得意だ。
地下の封印に関しては、領主や神殿で上手いことやってくれたと聞いているので、深入りするつもりもない。
「とにかく、家を買おうと思うわけだ」
「どうせ、女子らの攻勢から逃れたい一心じゃろうが、諸刃の剣となりかねぬぞ?」
「ともかく、家を買おうと思うわけだ」
「まあ、資金はあるしのう」
パタンと音を立てて分厚い本を閉じると、ふわふわ浮遊してアベルが座るベッドへと近づいていく。
アベルが家を買えば、マリーベルも自動的についていくことになる。他人事ではないと考えたのだろう。
「ああ。カッツに斧の弁償をしても、結局、10万Rは残ったからな」
「うむ。良いと思うぞ。どうやら、金を持たせておくと、なんもせんタイプのようじゃしの」
「うるせえ。金ってのは、減るときは一瞬なんだぞ?」
「この前は、金が減って喜んでおったくせに」
「それはそれ、これはこれだ」
シャークラーケンとの死闘を終え、数日。
一時は騒然としていたファルヴァニアの街だったが、今ではすっかり落ち着いている。
街自体がモンスター慣れしているというのもあるが、しっかり対策されたというのが大きい。
クラリッサの暫定報告書を受けて、慈愛の神アルシアとその夫神である都市の神ファルヴの神殿関係者が、封印の補修を行ったのだ。
経過観察中ではあるが、次の魔獣が現れる気配はない。マリーベルが出てきているのは血の絆によるものなので、まずは安心していいだろう。
安心できないのは、エルミア、ルシェル、クラリッサとの関係だった。
なぜか、全員アベルは宿を出るべきだと考えていて。
なぜか、みんなそろって自分と同居するのが一番だと思い込んでいる。
その同居圧力から脱するには、先手を打って、アベル自身が家を買えばいい。完璧な理論展開だった。一分の隙もない。
「しかし、ほんとに家を買って解決するかのう」
「それ以上いけない」
「その三人も移り住んできそうじゃなぁとか、まったく思っとらんし」
「それ以上いけないって、言っただるおぅ!」
アベルは思わず立ち上がり、巻き舌で抗議した。
その剣幕に、マリーベルはアベルをなだめにかかる
「分かった分かった。まあ、金が減れば、いつまでもだらだら過ごすこともできなくなるしの」
「言っとくけど、冒険者を続けるとは、まだ決めてないからな」
「それも、分かっておる。落ち着いてから決めてもよかろう」
シャークラーケンの件から、わずか数日。吸血鬼の尺度では、まだ一晩も経っていないぐらいだろう。
そのため、マリーベルは答えを急かそうとはしかなかった。
それに、家を買うというのも、新鮮なイベントだ。実のところ、マリーベルもかなり乗り気だった。
「まずは、どんな家がいいか、意見を交換しようではないか」
「ああ、そうだな。事前の計画と準備は重要だ。イスタス神も言っている」
「それ、最後は力押しって意味じゃからな。本人が言っておったし」
聞こえなかった振りをして、アベルは紙とペンを準備した。
マッピング用の、ゆえに最近は使っておらず、日に焼けている。冒険者として成功することを夢見て、ダンジョンの地図を記していた紙。
そこにもうひとつの夢、マイホームの計画を記すために。
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