闇を見通す吸血鬼の瞳は、曲がり角の先に並ぶ、三つの扉を捉えている。
『とりあえず、その危険な話は後に回すぜ?』
扉に取り付きながら、アベルは念話で先送りを宣言した。大前提を破壊するような話を片手間にはできない。
今は、探索に集中だ。
明かりもつけず、アベルは一番手前側の扉を調べる。
所要時間は、一分ほど。
やはり、罠は存在しないようだ。
鍵もかかっていない。
物音も聞こえない。
アベルは身振りで合図をして、扉を開けた……が。
「普通の部屋だな」
アベルの定宿とは比べるべくもないが、目の前に広がっているのは、特徴がないのが特徴のような二人部屋。
暗闇はそのままだが、ゴーストが襲ってくることもない。
探索中に不意打ちを受けたくはないので、先に他の部屋も扉を開けてしまうが……。
「どうやら、こちら側は使用人のスペースのようですわね」
マリーベルと同じくお嬢様育ちのクラリッサが下した結論に、誰も反対はしなかった。
三つ存在した扉のうち、ふたつはそれぞれ二人部屋になっていた。部屋の広さも、ベッドにクローゼットに鏡台に、ランプにと家具も、ほぼ共通している。
もうひとつは洗濯室のようで、特に使用された形跡はない。
アベルたちは最初の部屋に戻り、順番に捜索することにした。
「《燈火》」
ルシェルが、スピアの穂先に魔法の光を宿らせる。
部屋全体が、煌々とした明かりに照らされた。全員が暗視能力を有してはいるが、やはり明るいほうが探索はしやすいし、安心感がある。
「なにか、手がかりがあればいいんだが……」
ベッドの下にもぐりこみ、捜索を始めるアベル。
床をこつこつと叩いてみるが、なにかが隠されているような気配はない。ベッドの裏側にも、特に目に付くものはなかった。
端的に言えば、外れだ。
「まあ、最初から見つかるはずもないか」
「義兄さん、義兄さん!」
ベッドの下から、アベルが上半身を出したところ。クローゼットを捜索していたルシェルが、駆け寄ってきた。
「じゃーん。これを見てください」
アベルの目の前で広げられた衣服。
それは、白と黒の、アベルの目から見てもクラシカルなメイド服だった。
「まあ、古いのは当然か。でも、その割には、綺麗だな」
「ええ。不朽と清浄の効果が魔化されています」
どちら、戦闘には直接役立たないが、冒険者たちの間では非常にありがたい魔化として知られている。具体的に言うと、それがかかってないマジックアイテムは、売値が二束三文になる。期待させられる分、ゴミよりも性質が悪い。。
「つまり!」
その場でくるっと一回転し、ルシェルはドヤ顔で言った。
「使って汚してもいい服ですよ、使って汚してもいい服ですよ」
「なんでそこを繰り返し強調する!?」
「大事なところですから」
大事。確かに、大事ではあるが、簡単に返事をするわけにはいかない。下手をすると、詰みかねない。
しかし、これはアベルの認識不足。
黙っていても、詰む。
「メイド服ですの? わたくしが、メイドなど……。ですけど、アベルの趣味でしたら……」
「そうなのか? アベル、いつの間に……そんな……。いや、言い出せなかっただけなのか? 言ってくれれば、これくらい、私は……」
「風評被害ぃッ!」
「じゃが、顔は嬉しそうであるな」
それは仕方がない。アベルもまだまだ男なのだ。そういう日もある。
「ごほんっ。とにかく、家捜しだ。もっと重要なものがあるかもしれないだろ」
「アベルの言うとおりだ」
何事もなかったかのように、凜としたたたずまいを取り戻すエルミア。
「使用人の部屋と見せかけて、重要なものが隠されている可能性もある」
「地下室への入り口とか、定番ですわよね」
「ああ。吸血鬼は地下室とか、好きらしいぞ。マリーベルが言ってた」
ベッドの下から本格的に抜け出したアベルが、ふと思いたって、鏡台の前に移動した。
「鏡か」
磨きぬかれた鏡は《燈火》の光を受けて、歪みなく部屋の様子を映し出している。
そう、エルミアたちが部屋を探索する様子を。アベルは、そして、マリーベルも。透明人間のように無視されている。
もはや、アベルがアベルの顔を見ることはできない。
軽く息を吐き、アベルは鏡の前を離れ――ようとしたところ。
病的なまでに白い肌。
止めどなく血を流す漆黒の眼窩。
虚のような丸い口。
鏡に、ゴーストが、大写しに、なった。
「こいつ!」
「――――OoooooooHhhhhh!!」
サイズダウンしたゴーストが、鏡から抜け出てアベルへ迫る。
狭い部屋。逃げ場はない。いや、逃げれば、他の誰かに襲い掛かるだけ。
やるしかない。
迎撃のため、アベルは腰のショートソードを抜いた。魔法の支援はないが、殴れば多少は効くはず。
一撃当てて、体勢を立て直す。
その目論見どおり、アベルの刃は伸びたゴーストの首をかき切った。
カットスロート。だが、手応えはほとんどない。
首を折り曲げたまま、ゴーストが迫ってくる。
アベルの視界に、瞳から赤い血を垂らすゴーストの不気味な顔が大写しになった。
「アベル!?」
それは誰の悲鳴だっただろうか。
確認することもできず、アベルは、唇を奪われた。
冷たく、ぬるっとした、海の生き物に触れたような感触。
ゴーストなのに、生臭い。
虚無そのもののゴーストの口が吸い付き、アベルの精気をも奪っていく。
アベルの手足から、力が抜ける。ショートソードが、床にがらんと転がり落ちた。
命血を失うのとは、また異なる喪失感。重力に抗しきれない。まるで、筋力そのものを吸収されているかのよう。
「なんてことをしますのっ!」
真っ先に気づいたのは、クラリッサ。
考えるよりも先に、体が動いていた。
床を蹴り、壁を蹴り、狭い部屋を縦横無尽に移動して、ゴーストに踵落しを放つ。
「――――jerhgoughd!?」
驚くべきことに、その一撃で、ゴーストはアベルから引き剥がされた。アベルが放ったショートショードの一撃など、比ではない。
ゴーストが跳ね飛ばされる。あり得ない現象。
けれど、クラリッサの関心は、もはやゴーストにはない。
「アベル!? 無事ですの!?」
「あ、ああ……」
床に崩れ落ちたアベルを抱き起こし、膝枕をするクラリッサ。アベルは顔面蒼白だったが、返事はできる状態。まずはそれに、安堵する。
一方、安堵とは程遠いのは、ゴーストのほうだっただろう。
なぜ、ダークエルフごときに蹴り飛ばされねばならなかったのか。一体、なにがそれを可能にしたのか。
ゴーストにも、自己保存の本能がある。なにが、自らを害したのか分からない。それは、ゴーストにとっても不安だった。
さらに、蹴り飛ばされたゴーストの目の前には、うつむくエルミアとルシェルがいた。
「許せぬ」
「よくも義兄さんを……ッッ」
エルフの姉妹が、続けて平手打ちを放った。
いずれも、ゴースト相手に通用するはずがない。
だが、情念をそのまま形にしたような一撃は、実体と非実体の垣根を越えた。
鈍く重たい打撃音が、狭い部屋にこだまする。
「――――y4fehietb!?\p80it@ojrv!?」
続けざまに平手打ちを食らい、ゴーストが体をくねらせた。明らかに、混乱している。
ゴーストとは、非実体という実体を持つ矛盾した存在だ。本来ならば、存在し得ない。それを現世に留めているのは、負の感情に起因する精神力。
では、それを超える感情ぶつけられると、どうなるか。
司祭により神の愛に晒されたゴーストは、浄化される。
一方、滅多にあることではないが、ゴースト同士が衝突した場合、より負の感情を孕んだ。端的に言えば、より恨みが深いほうが勝つ。
後者こそ、マリーベルが不可能と言ったゴーストを消滅させる方法。
ゴーストを凌駕する、恨み、憤り、憎み、哀しみ、嘆きの感情など、普通の人間が抱けるはずはないのだ。
普通は。
尋常でない負の感情をぶつけられたゴーストは、逃げ出すしか手がなかった。
「――――ygurewg!?ojoiawdy!?hsuweop!?」
三人分の怒りをぶちまけられ、慌てふためいたゴーストが鏡の中へと帰っていった。
「お待ちなさい!」
誰もが立ち止まってしまうだろう、威厳あるクラリッサの声も届かない。
ゴーストが完全に鏡の中へ姿を消すと、鏡台がぼろぼろと崩壊した。一気に風化し、砂となって、その砂すら吹き散らされ跡形もなく消える。
まるで、止まっていた時間が、一気に経過したかのようだ。
同時に、闇が晴れた。
ランプに火が灯って、部屋を明るく照らし出す。
「アベル、具合はどうじゃ!? 痛むか? 動けるか!?」
「そういう心配……は、心臓を握りつぶした……ときに、して欲しかった……ぜ」
クラリッサに膝枕をされたアベルの胸に、マリーベルが取りすがる。
冗談を口にできていることから、それほど深刻でないのは分かる。
だが、アベルは立ち上がることができず、寒気に身を震わせていた。突発的に、風邪を引いたのと同じ状態になっているようだ。
回復が必要。
そして、吸血鬼の回復方法といえば、ひとつ。
「義兄さん、手早く済ませてしまいましょう」
ひざまずき、うなじを見せて。ルシェルが恥ずかしそうに、けれど、真剣に言った。
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