それは、裂け目というよりは、世界にできた傷跡に見えた。
ミニ・シャークラーケンを追って歩くこと、約30分。遅々とした歩みへの苛立ちを飲み込みながら、封印の綻びと思しき場所に到着した。
アベルの目の前に現れた、1メートルにも満たない虹色の割れ目。
それは、壁でもなく床でもなく。ましてや天井でもなく。
なんの支えもなく、宙空に存在していた。
どこから見ても同じように見える、爪でひっかいたような虹色の割れ目。
広大な下水道から探し出すのは至難の業だったろうが、見れば一目で問題の場所だと分かる。
『でも、封印は神殿の連中が補修したはずなんだよなぁ……。なんで、こんな短期間に?』
『補修したあともマリーは普通に出てきてた』
『あれは、特別な血の絆がどうこうって言ってた気がする……』
マリーベルは例外。恐らく、ウルスラも、その範疇に含まれるのだろう。
『だとすると……。補修が不完全だったのか?』
『封印自体がガタガタなのかも』
『怖えこと言うなよ』
それは考えたくない可能性だった。
ミニ・シャークラーケンは、そんなアベルの気持ちも知らず、一目でサイズが違うと分かる割れ目にサメの頭部を突き刺し――
「おっ、おおう?」
――そのまま、吸い込まれるように姿を消してしまった。瞬きをしていたら、見逃していたはず。
あとには、割れ目だけが残っている。
『さあご主人様急いで スーシャたちも遅れずに 兵は拙速を尊ぶ』
『スーシャが乗り気だと、不安しかねえな!』
『行くしかない』
この場合は完全にスーシャが正しい。
それに、吸血鬼狩人と対峙しているエルミアたちのことを考えると、ためらっている場合ではない。
『……行くか』
『もう少し迷ってたらスーシャがコフィンローゼスでご主人様を引っ張っていくところだった』
『ああ、自分で動かせるってことは、そういうこともできるのか……』
虹色の割れ目へと向かいつつ、アベルは、はたと足を止めた。
『そういう使い方、止めろよ? 絶対にだぞ?』
『了解 ここぞと言うときに使う』
『そういう意味じゃねえよ!』
心から叫び――まあ、念話なので、すべてがそうだとも言えるのだが――を残し、アベルは割れ目へと飛び込んだ。
暫時、意識が途切れる。
「ここが、封印の地……でいいのか?」
『たぶんというか絶対確実に隣接する別の次元』
次の瞬間、見たこともない暗い場所にいた。
上下左右。どの方向にも、無限に広がっている不思議な空間だ。
コフィンローゼスとともに、アベルは宙に浮いていた。
そこは、気体とも液体ともつかない物質で満たされていた。
呼吸はできる。
地面はないが、立っていることはできる。
足を動かせば、自然と、その方向へと進むこともできた。
天もなく、地もなく。
生命の気配もない。
ただ、視界内には、いくつかの光源が存在していた。
いや、それは“世界”だ。
無限に広がる広い空間に、ぽつりぽつりと。しかし、無数に浮かぶシャボン玉。
それ自体が光を放ち、透明な皮膜に包まれた内部に、海があった、山がそびえていた、城が鎮座していた。
ふと遠くを見ると、ミニ・シャークラーケンが海の“世界”へぷかぷかと移動している光景が見えた。
しばらくそれを眺めていると、シャボン玉の皮膜に触れ、そして、消えた。
ミニ・シャークラーケンは、元の場所へ帰還した。
「あの中に、ひとつひとつ分けられて封印されてるってことなのか……?」
確証はない。
だが、アベルは、その推測が正解だと確信していた。
「つまり、シャボン玉のどれかに、マリーベルがいるんだな」
それに気付くと、アベルの胸に焦燥感が溢れてきた。
近づいたからこそ、生まれてきた苛立ち。
「マリーベル!」
アベルは、叫んだ。
「マリーベル! 聞こえてたら返事しろ!」
恥も外聞もなく。
「いきなりいなくなりやがって! 心配してるんだぞ、こんにゃろう!」
ほとんど、八つ当たり気味に。
「なんか一言、言い残していけば良かったじゃねえか。このバカ!」
言い募りながら、どんどんと不満が大きくなっていく。
そこまで気にしていなかったはずなのに。
会えるかもしれないと気付いたら、我慢ができなくなってしまった。
しかし、どれだけ待っても、返事はない。
耳に聞こえる声では。
『聞こえとるわ、バカモン!』
唐突に、念話が届いた。
いつもの。
あまりにもいつも通りで。
アベルは、その場に崩れ落ちそうになった。
念話による誘導で、アベルたちはシャボン玉の世界のひとつに降り立った。
暗雲に覆われ、尖塔のある大きな城がある世界。
そこが、マリーベルの封印の地だった。
その城門を前にして、コフィンローゼスから真っ先に飛び出したのはスーシャ。
「マリー無事?」
「スーシャも一緒か」
「ご主人様あるところにスーシャあり」
「相変わらずそれはどうかと思うが……。まあ、良い」
吸血鬼が二人。
薄闇の世界で抱き合い、再会を祝す。
しかし、アベルは、とてもそんな気分にはなれなかった。
スーシャが胸に飛び込み、マリーと呼んだ美女。美女、美少女なら見慣れているアベルも驚くほどの美女。
それがとても、マリーベルには見えなかったからだ。
射干玉の黒髪。
同じ色なのに、煌びやかに感じられるドレス。裾は長く、袖もゆったりしている。
ここまではいい。
しかし、目の前の美女は、端的に言うと大きかった。
身長も、胸も。大きすぎた。
「マリーベルの母親……?」
「本人に決まっておるじゃろうが! この節穴ぁ!」
「バカを言うなよ」
少しだけ怒ったように、アベルが美女をにらみつけた。
「マリーベルが、こんなにでかいわけねえだろ」
アベルとて、普段の小さなマリーベルがデフォルメされた別の姿だとは分かっている。
分かってはいるが、イメージが違いすぎて受け入れられなかったのだ。
「これが本体じゃ、バカモン!」
しかし、マリーベルの罵声を耳にし、そのギャップがようやく埋まった。
「ああ……。良かった。姿形は変わっても、マリーベルはマリーベルだったぜ……」
「なんかむかつくのう」
もっと違う反応を期待していたのだろう。
マリーベルは不満気にスーシャを抱きしめ続けていた。
その後ろから、男装の執事が姿を見せる。
「よくいらしてくださいました、アベル坊ちゃま」
「ああ……。ウルスラも一緒だったか。二人とも大丈夫そうで良かった」
「はい。私めだけでは、お嬢様をお守りするだけで精一杯。本当に助かりました」
素直に頭を下げる男装の執事に、マリーベルは不満気に鼻を鳴らした。
「ふんっ。子に助けられるほど落ちぶれてはおらぬ」
「おやおや。左様でしたか」
アベルへの殊勝な態度はどこへ行ったのか。
頭を上げたウルスラは、挑戦的な笑顔を浮かべていた。
「とても、アベル坊ちゃまが探しに来てくださるか心配していた方のお言葉とは思えませんね」
「心配などしておらぬわ!」
「そうでした。心配ではなく不安でございました。失礼いたしました」
「ぐぬぬぬぬ……」
ウルスラにやりこめられる、大きなマリーベル。
自分の不利になることでも、事実であれば認めてしまう。その公平さが、実にマリーベルらしい。
アベルは、とても心地好い感覚に浸っていた。
マリーベルと出会ってから一ヶ月も経っていないし、別れていたのもほんの数日なのに。
瞳を入れた竜の絵が天に昇るかのように。
実に、しっくりときた。
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