「悩んでいるという自覚がある。それだけで進歩していると思うぞ、余は」
「ばっさりきたなー」
クルィクの大きな背中に横たわり、アベルは中天からややずれた太陽を見つめていた。
体全体で味わう毛皮の感触と、マリーベルの愛はあるが遠慮のない発言に、心と肩が軽くなる思いだった。
「でもよ、Bランクに上がろうとするのを悩むだなんて、普通じゃないだろ?」
元々の相談は、このことだった。
昇格するのだ。いい話、それは間違いない。
吸血鬼となってCランクとして活動が難しくなったことも、それを後押しする。
というより、他に選択肢はない。
なのに、保留にした。してしまった。クラリッサたちの目は、見れなかった。
自分の部屋で考えようかと思っていたが、気付けば足はマリーベルの下へと向いていた。
クルィクと触れ合いたいというのも、多少はあったかもしれないが。
「なにを言うか、アベル。汝、自分が普通だとも?」
「もちろん。吸血鬼だってこと以外は――」
「周囲も含めて考えてみよ」
「それは……まあ……な」
そこまで言われると、実に反論しづらい。
「でも、それだと、マリーベルも普通じゃないってことになるぜ?」
「なにを言う。余は、吸血鬼の王ぞ。人が定めた『普通』に当たらぬのは、むしろ当然であろう」
「常識人なのになぁ」
「汝らがあれすぎて、ストッパーにならざるを得んからであろうが!」
なにげないアベルの賞賛が、マリーベルの逆鱗に触れた。
小さなマリーベルが飛び上がり、アベルの腹目がけて落下してくる。両足で。
「ぐはっ」
重たいはずがないのだが、かなりいいキックだった。
そんなリアクションも、なんとなく快い。
こうしているのも久しぶり。この状況にいるだけで、なんとなく微笑が浮かんでくる。決して、スーシャに精神を汚染されたわけではない。
「まあ、まあ。ここは善行を積むと思ってだな」
「むむむ。そう言われれば、無下にもできぬ……」
最初から、適当に済ます気はないくせに……とは言わない。
スーシャへの対応を見ても、それは明らか。だから、わざわざマリーベルの機嫌を損なうようなことを言う必要はなかった。
「要するにあれじゃろ? そうするのが正しいからと、状況に乗せられたままでいいのか。そういうことなんじゃろ?」
アベルの体から降りてクルィクの背中に、ばふんと身を投げるマリーベル。
それがかゆかったのか、クルィクがわずかに身じろぎをした。
「まあ、そう……なんだろう……な」
違和感をはっきりと言葉にされ、アベルはごろんとクルィクの背中を転がった。
言われてみると、かなり情けない理由だ。
それでも、不承不承とはいえ認めたのは、マリーベルと二人きりだったからだろう。
コフィンローゼスは、ウルスラに預けてある。中身も一緒に。
仲間外れというわけではないが、妥当な選択だとアベルは信じている。
「なし崩しに同居しておるし」
「ああ」
「エルミアは家事を仕切っておるし」
「ありがたいのは、事実なんだが……」
「ルシェルは、汝を守る気満々でおるし」
「呪文運用の研究とかはいいことなんだろうけど……」
「クラリッサは、いい仕事を持ってくるし」
「あれ? これで文句を言う俺って最低じゃね?」
感謝はしている。
断る道理もない。
では、どこが不満なのか。
「分かっておろう、アベル?」
目と目を合わせ、じっと血でつながった子を見つめるマリーベル。
相手が血の親だからというわけではないが、アベルは目を逸らすことができない。
マリーベルからも、現実からも。
「俺の希望ではあっても、俺の意思はないから……だな」
だから、心の底から納得できない。
結果は、同じどころか、より良いものだろうに
「子供じゃな」
「……男ってのは、永遠に子供の心を忘れないもんなんだよ」
「汝の永遠は、本当に永遠になりかねぬからの?」
「お、おう」
吸血鬼も、難儀な生き物だ。終わりがあるというのは、悲劇であると同時に、ある種の救いでもあるのだろう。
「そこで、対話じゃ、対話」
「そのアプローチは、一度やって、失敗したんじゃ……?」
「失敗はしておらぬ」
むくりと起き上がって、マリーベルは言った。
「失敗はしておらぬ」
重ねて言った。
「ただ、向こうのペースに飲まれたのが敗因じゃった」
「それは失敗したってこと――」
「――しておらぬ」
さらに重ねて、マリーベルは言った。
「……はい」
神妙に、アベルは答えた。
「ところで、話は戻るがの、アベル」
「どこにだよ」
「余としても、三人が張り切るのも分かるというものよ」
マリーベルはおもむろに立ち上がり、クルィクに横たわるアベルの顔をのぞき込んだ。
「俺の女などと熱烈に告白されて、頑張らぬ女はおらぬ」
「……そうか?」
そんなに単純じゃないと思うが……と、アベルは否定的だった。
だが、続くマリーベルの一言で考えを改めざるを得ない。
「男女逆で考えてみい」
「……そりゃ、張り切っちゃうよなぁ」
エルミアたちに悪いことをしている。それが、しみじみと理解できた。
咄嗟に出た言葉とは言え、その真意をはっきりとさせていないのも、アベル自身の責任だ。
自己嫌悪で、対話の話はどこへ行ったのかと、ツッコミを入れる気にもならない。
「バカモンッ」
唐突に、マリーベルがアベルに手刀を見舞った。一緒に、ツインテールの黒髪も大きく揺れる。
アベルは、叩かれた頭を抑えつつ、しまったという顔をする。
「そんなに、ツッコミを控えたのがマズかったのか……」
「なんの話じゃ?」
もちろん、マリーベルが折檻をしたのは、そんな理由からではない。
「今、自己嫌悪しておったじゃろ」
「は?」
「なぜ、一方的に自分が悪いと決めつけるのじゃ」
「は? いや、いやだってよ」
アベルが悪いのだ。決まっている。
「なにも言わずに仕事を辞めたエルミアも、悪い」
「まあ、悪いというか、驚いたというか……」
「ルシェルも、本当に一緒に冒険に出るつもりであれば、もっとアベルと相談すべきであろう」
「どれだけアドバイスできるか分からないけど、まあ、正論ではあるな」
「昇格を目指すはずだと決めつけるクラリッサは、アベルのことが分かっておらぬ」
「うん。そうなんだけど、そこを認めるのも微妙だなぁ!」
だが、マリーベルの言いたいことは分かってきた。
「お互い様なんだから、そんなに気にするなって言いたいんだな?」
「それもあるが、しかし、本質ではない」
アベルをのぞき込みながら、顔の前で人差し指を左右に振る。
「つまりじゃ、アベル。汝が手綱を握るのだ」
「……主導権を取れって?」
確かに、それなら結果としては同じでも、アベルの意思が反映されたことになる。
ごまかしかもしれないが、元より気持ちの問題なのだ。
それでも充分と言えた……が。
「なあ、マリーベル」
「なんじゃ、改まって」
「家を買うってのも、俺の意思だったはずなんだが」
「あれは、タイミングと相手が悪かった」
「タイミングはともかく、相手は同じだぞ」
マリーベルが、目を背ける。
しかし、それもわずかのこと。
「冒険者を続けるのであろう? 追い出すつもりもないのであろう? ならば、既成事実で済まさず、しっかりと言葉にせよ」
「ああ、そうか。そうだな」
言葉には、責任が伴う。
思えば、決意はしても責任を負うことを無意識に避けていたのかもしれない。
「流されず、俺の言葉で希望を伝えればいいんだな」
「うむ。流されるなよ。そこが一番重要じゃからな」
なぜか必死に念押しをするマリーベルを疑問に思いつつも、アベルはしっかりとうなずいた。
「アオオオオォォッッンン!」
そのとき、クルィクが遠吠えをあげた。
アベルの決断を応援するかのように。
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