『いや、待て。そもそもだ』
下卑た内容を口にしていても美しさは変わらないマリーベルから視線を外し、アベルは素早くベッドから起き上がった。
慢性的だった腰痛も、関節の痛みも今はもうない。
やや厳つい顔と相まって、動きだけであれば達人のような雰囲気を感じる。動きだけであれば。
『本当に俺は吸血鬼なのか?』
『ふむ。哲学じゃな』
『違えよ、このバカ親が』
そんな高尚なもんじゃないと、アベルは首を振った。
マリーベルは相変わらず、ふわふわと頭上に浮いている。
『ひらひらしたスカートで、ふらふらするんじゃねえよ。ポイズンフォッグか』
毒霧が生命を得たモンスターを引き合いに出しつつ、アベルはマリーベルを掴んで高度を下げさせた。
『なんじゃ。汝は余の父親か。キモイわ』
『親はそっちなんだろ。あと、キモくねえし』
『生意気な小倅が。父親面など千年早いわっ。それから、やっぱりキモいわ』
『残念ながら、もう若くねえよ。キモくもねえけど……って、そんな話じゃねえ』
ふわふわふらふらするマリーベルをベッドに座らせ、アベルは代わりに明後日へ行ってしまった本題を取り戻す。
『今のところ、まったく吸血鬼らしさが感じられないんだがな。単に、太陽の光に弱い人間でしかないぞ』
『体は快調じゃろ?』
『うっ。まあ、それはそうだが……』
起き抜けの体の痛みもなく、若い頃よりも体が動く。それは実感していた。
アベルは思わず仰け反ったが、すぐに前のめりになってマリーベルを問いただす。
『でもよ、体の調子がいいってだけなら、吸血鬼以外にもいろいろ原因とか理由は考えられるだろ?』
この世界には魔法もある。魔道具もある。属性石と、そこから得られる能力のように神々の加護もある。
吸血鬼だけが、好調の要因とは言い切れない。
『言いたいことは分かるぞ。だが、余の存在はなんとする?』
『俺の頭がおかしくなっただけ』
『ふむ。余は狂人の妄想か』
『それか、性質の悪い幽霊に取りつかれてるかだな』
『そちらのほうが、よほど問題に思えるがの……』
そう思念で伝えつつも、信じられない。あるいは信じたくない気持ちは分かるのだろう。マリーベルは、理解を示す。
それに、悪霊されてるのもたまらない。似たようなものなのだから、なおさら。
『そうじゃの。先ほどの陽光以外にも、呪いを実感すれば良かろう』
どうすればアベルを納得させられるか。
ベッドに座って思案していた小さなマリーベルが、ぽんっと手を打って物騒なことを言った。
『デメリットを実感させるとか、それどうなんだよ』
『簡単じゃからな。さて、アベル。鏡を持て』
『しかも、他人任せ……』
中年男性が人形のような少女にあごで使われる姿は、情けない以外に言葉がない。
あえて深く考えないようにして、アベルは部屋の片隅に放置されていたバックパックから――どうやら、鎧と違ってちゃんと持ち帰っていたらしい――手鏡を取り出した。
冒険中に身だしなみを整えるための装備……ではない。
この手鏡を使用することで、頭を出さずに角の向こうを確認することができるのだ。
また、メデューサのような直視すると危険なモンスターとの戦闘でも活躍する……というのは、英雄譚の影響を受けすぎだろう。
残念ながら、そんな器用なことはできないし、魔法で視覚以外の感覚を用意するのが効率的だ。
『ほれ、寄越すのじゃ』
『壊すなよ? 結構、高えんだぞ』
『そら、映っとらんじゃろう?』
『…………』
アベルの注意など聞かず、手鏡を受け取ったマリーベルは、鏡面を向けた。
光の源素王から受けた、『虚像の掟』。鏡や水面などに、姿が投影されなくなるという呪い。吸血鬼の特徴としては、かなり有名な部類に入る。
「まさか、自分がそうなるとは思わなかったぜ……」
憂欝というよりは、風邪でも引いたかのように気怠げに、アベルはマリーベルから手鏡を取り返した。
改めて自分に向け、背後の壁や天井しか映っていないことを確認。続けざまに、マリーベルにも向けたが、さっき自らしわくちゃにしたベッドしか映っていなかった。
魔法で似たようなことができないとは言わない。
アベルが意識を失っている間に、手鏡が特殊な魔道具へすり替えられた可能性もある。
だが、そこまでしてアベルを騙そうとする理由は存在しない。
アベルは、ぐっと両拳を握った。色が変わるほど、強く強く。
『ちなみに、吸血鬼から人間に戻れたり……』
『できたら、余自身がやっておるわ』
『そうかい』
『納得したかの』」
「まあ、多少はな……」
強がりにも似た言葉を口にするのがやっと。
鏡をベッドに放り投げ、アベルは手を口へと伸ばす。
「ってことは、俺も血を吸って生きなくちゃならんのか……」
指で剣歯に触れるが、特に大きくも鋭くもなってはいない。疼くようなこともない。
いや、そうなっていたら、こんな風に鏡で確認などする必要はなかったのだ。
そう。もし血が吸いたくて疼いていたら、自分が吸血鬼だということに疑問など抱かなかったに違いない。
『その点に関しては、アベル。汝を選んで正解じゃったな』
『不正解だろ? 吸血鬼なのに、血を吸いたくないって言ってるんだぜ? 明らかに、出来損ないじゃねーか』
『それで正解なんじゃよ。転変した途端に血を吸いたがるような異常者は、早晩獣に飲まれて自滅するだけじゃからな』
マリーベルから思わぬ思念が飛び出し、アベルは思わず笑ってしまった。
吸血鬼になったにもかかわらず、進んで血を吸おうとしたら異常者認定。なんという理不尽だろうか。
『こいつは、生きてきた中で、最高の冗談だな』
『うはははは。まさか、余に人を楽しませる才能まであったとは。余は自らの才覚が恐ろしい』
『おい。たった今、最高記録が、一瞬で塗り替えられたぞ』
『まあ、それはさておき』
強引に言葉を切り、小さなマリーベルは安心させるように、怜悧な美貌に笑顔を浮かべて言う。
『『狩人の宿命』は、いかようにもなるから安心せい』
『そうなのか? いや、それでいいのか?』
吸血鬼といえば、やはり、邪悪な高位アンデッドという印象が強い。
美女をさらい、あるいは寝室に忍び込み。生き血を啜り、同族を増やし、世界に闇を広げていくのだ。
『なんともステロタイプな吸血鬼じゃのう』
『でも、人……か、エルフかドワーフかは知らないが、襲って血を吸うんだろう?』
闇の源素王から受けた、『狩人の宿命』。他者の血を吸うことでしか生きられなくなる呪い。
吸血鬼を吸血鬼たらしめる宿痾。
『まったく。余らを我慢の利かぬ、愚かなモンスターとでも思っているのか?』
『違うのかよ』
『違うのじゃよ。まあ、イスタス神にお仕置きされてからはの』
『……そいつはハードそうだ』
この世界を浄化したイスタス神は、秩序と善を重んじる厳格な神として知られていた。
『まったくじゃぞ。神剣すら使わず、拳で説教してくるんじゃぞ。頭おかしいじゃろ』
『お、おう』
神に実際に会ったかのような愚痴を聞かされても、アベルにはどうしようもない。ジョークだったらつっこめず申し訳ないが、とりあえず流すことにする。
『神祖の誕生より数千年。余らも進化しているということよ』
『まあ、人を見境なく襲わずに済むってんなら、むしろ歓迎すべきだけどよ……』
大きな懸念が消え、アベルは安心の息を吐く。
しかし、それは次なる疑念を生み出すだけだった。
『なんだか妙に至れり尽くせりに感じるんだがな』
『ははははは。感謝感激しても良いぞ。余が許す』
『マリーベル、お前の目的はなんだ?』
『アベルよ、初めて余の名を呼んでくれたのう』
『話をそらすなよ』
不意に、沈黙が安宿の一室を支配した。
アベルと小さなマリーベルは、真っ正面から視線をあわせる。
そのまま緊張感が高まり……不意に、弛緩した。
マリーベルがまたふわふわと宙に浮き、アベルの肩へと戻る。
『それを明かすのは、まだ早すぎるの』
『まあ、それもそうか。俺を信用するには早すぎるよな』
『それは、お互い様よな』
アベルが吸血鬼に転変して、わずか一晩。こうして言葉を交わすようになってから、一時間程度。
それを思えば、マリーベルの言葉は妥当なものだった。
『そこで、吸血鬼イメージアップキャンペーンが必要になるわけじゃな』
『どこでだよ。というか、本気なのか冗談なのか分かんねえだろうが』
『余が吸血鬼の良さを教えてやらねばならんということよ。ああ、遠慮する必要はないぞ。これもまた、血の親が努めゆえ、感謝する必要はないぞ』
『良さって……。そうか、だから、さっき金って言ってたのか』
正確には言葉にはしていない。
ジェスチャーで表現しただけだが、間違いではなかったらしい。
『じゃから、それを実感する意味でも、これじゃよ、これ』
またしても、マリーベルは親指と人差し指で円を作って上下に揺らす。
もちろん、金はあったほうがいいに決まっている。
しかし、どこまで本気にすればいいのか。
本気にしていいのかも、分からない。
『でも、まあ、あれだよなー。金は確かにいくらあってもいいもんな。うん。金があって死ぬヤツはいたかもしれないが、逆よりは全然少ないはずだよな。吸血鬼になったのは、仕方がないことだしなー』
分からないが、期待する分には構わない。
そのはずだった。
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