ジョルジェたちに羨望ではなく憐れみと激励の視線で送り出されたアベルは、部屋の入り口で立ち尽くしていた。
「義兄さん、なにをしているんです? どうぞ入ってください」
「あ、ああ……」
宿の入り口でもしたやり取りを、もう一度繰り返すアベル。
ただ、『孤独の檻』のことを憶えていた前回と違い、今回は、ルシェルの部屋に入っていいのかという戸惑いに支配されていた。
アベルにとっては日中だが、世間一般では、寝静まる時間なのに。
「楽にしてくださいね、義兄さん」
重ねて言われ、アベルは足を踏み入れた。ダンジョン探索のごとき慎重さで。
マリーベルを出すのも忘れ、アベルは入り口で立ち尽くし、視線を彷徨わす。
アベルの定宿よりも遥かにランクが上。
隅々まできちんと清掃され、床も壁も石がむき出しではなく木で覆われている。ベッドの他に収納もあり、部屋の隅には書き物机まで置かれていた。
壁に掛けられたランタンの中からは、玻璃鉄に封じられた魔法の明かりが部屋中を照らし出している。
防犯上の理由もあるのだろうが、広さも、壁の厚さも、広さも、調度もすべてが違う。
なにより、この部屋にはルシェルがいる。
そこが、最大の違いだった。
「ちょっと豪華すぎますが、どうせ、一人で泊まるのは少しの間だけですから」
驚くアベルに、ルシェルがはにかみながら説明する。
それに対して、誰かと同居する予定があるのか……と聞けるほど、アベルは鈍くもないし、ましてや命知らずでもなかった。
暖かみがあるのに背筋が寒い思いをしながら、アベルは書き物机の側の椅子に座る。
「ベッドでも良かったんですけど」
「いやいや、それはまずいだろ」
「まずいですか? 義妹相手なのに?」
「そもそも、兄でも妹でもないはずだよな?」
「その台詞が聞けるのなら、やっぱりベッドが良かったですね」
ルシェルが、ぺろっと舌を出して片目をつぶる。
整ったエルフの美少女が見せる、無防備な素顔。
アベルでも、勘違いしそうになってしまう。
「まずは、用件から話すが良かろう」
そんな雰囲気を感じたからではないだろうが、マントの中から自主的にマリーベルが姿を現した。
その声は重々しく、表情は固い。
「用件ですね。それを先に済ませてしまいましょう」
マリーベルの出現にも驚いた様子は見せず、ルシェルは呪文書を手に取った。
「《幻像》」
ルシェルが開いた呪文書から2ページ分飛び出し、宙空で光球へと姿を変える。その光球から放たれた光が部屋の壁に到達すると、白い背景に黒い文字が映し出された。
「『義兄さんが、私とパーティを組むべき三つの理由』……?」
「はい。呪文にちょっとアレンジを加えて、資料を作ってみました」
「才能の無駄遣いって、こういうことを言うんだな……」
「部屋が明るいと見にくいので、部屋を暗くしますよ」
アベルのつぶやきは聞こえなかった振りをして、ルシェルはランタンのシャッターを閉じた。
真っ暗な部屋の中、宙空の《幻像》と壁だけが光を放つ。
「では、プレゼンを始めます!」
「相変わらず、妙に押しが強い女子よな……」
「いや、ちょっと前までは、俺と組むのが当然って感じだったからな。それを思えば、提案の形になってるだけ成長してると思うぞ」
「それもどうなのか……」
念話ではなく、ひそひそと言葉を交わす血の親子。
それに気付いているのか、いないのか。ルシェルがパチンと指を鳴らと、壁に文字が映し出された。
「まず、第一の理由は、これです」
「『気心が知れている』……か。これは、まあ、確かに」
文字だけでなく、背景には歯車の絵まで描かれていた。二人が噛み合っているとでも、言いたいのだろうか。
「吸血鬼のことを知っているという点も含めてじゃな?」
「そうなりますね」
「じゃが、それだけでは、決め手にはならぬであろう。そなたの姉も受付嬢も、条件としては同じじゃ」
その二人には本職があるんだから、冒険者にはならないだろう。
アベルはそう言いかけたのだが、予想に反して、ルシェルは、もっともだとうなずいていた。だが、その反論も予測済みだったのか、冷静に指を鳴らす。
「そこで、次の理由です」
「『絶対に役に立つ、魔術師能力』が第二の理由か。魔術師がどこでも引っ張りだこなのは、間違いねえな」
「そういうものか?」
「いなきゃどうしようもないとまでは言わねえが、いてくれたら助かるもんだ」
魔術師の魅力は、学習次第で無限に増える呪文のレパートリーにある。
司祭がパーティの生存率を上げるのに対し、魔術師は依頼の成功率を格段に上昇させるのだ。
「いえいえ。私が言いたいのは、そういう常識的な部分ではありません」
「……じゃあ、なんなんだ?」
顔の前でぱたぱたと手を振り、アベルの発言を否定するルシェル。
「論より証拠でしょう――《真闇》」
そう言って、ルシェルが次の理術呪文を行使する。
薄明かりの中――吸血鬼であるアベルにもマリーベルにも特に不自由はないのだが――呪文書から3ページ分切り離され、部屋の真ん中で球状にまとまった。
それが黒い光を放ち、部屋いっぱいに広がっていく。
「《真闇》の呪文は、外からの光を遮断します」
「……太陽の光も遮れるってことか」
「その通りです。万が一の時にも、私が義兄さんを守ってあげられます。この世の悪意、すべてから」
「それはちょっと、対象でかくない? 俺は一体、誰に襲われようとしてるの?」
満たされた様な笑顔を浮かべるルシェルへ遠慮がちに言いながらも、アベルは正しさを認めずにはいられなかった。
いくらアベルが冒険者を続けようと決めたところで、太陽の問題はなくならない。
「昼間は頑張れば起きてられるんだけど、太陽の光だけはなぁ」
「あのときは一瞬だから気絶で済んだが、直射日光を受けたら砂になるしのう」
「灰じゃなかったのか……」
どちらにしろ、待っているのは死だ。吸血鬼だから、死んでからも復活できるのかもしれないが、体験したいとは思わない。
「納得いただいたところで、最後の理由は、これです」
ルシェルが指を鳴らすと同時に、《真闇》が解除され、壁に三つ目の理由が投射される。
アベルらしき男とルシェルと思しきエルフの少女がデフォルメされたイラストとともに、表示された文字は――
「『絶対に、裏切らない』……いや、大げさじゃねえか?」
「そんなことはありませんよ」
ゆっくりと。しかし、有無を言わせぬ雰囲気を漂わせ、ルシェルがアベルに近づいていく。マリーベルの存在など、完全に蚊帳と意識の外だ。
金縛りにあったかのように、アベルは動けない。
マリーベルも、下手に刺激したらどうなるか分からないと、静観を選ばざるを得ない。
大胆にもその膝に腰掛けて、ルシェルはアベルの耳元でささやく。
「私を選んでくれれば、義兄さんは絶対に幸せになれます。私が、してみます」
「ルシェルを選ぶって、それは――」
冒険者仲間としてという意味なのか。それ以外の、それ以上の意味があるのか。
そう問い質そうとしたアベルの機先を制し、ルシェルは言葉を重ねる。
「姉さんなりの考えがあってそうしたのでしょうが、私なら絶対に義兄さんを哀しませるような選択はしません。絶対にです」
甘く。
蕩ける。
毒のような言葉。
害があると分かっていても、ついばみたくなってしまう。
「正直に言って下さい。義兄さんは、ギルドマスターになんてなるつもりはないですよね?」
「まあ、やりたいかやりたくないかで言えば、それは……」
「ですよね。義兄さんなら立派なギルドマスターになれると思いますが、クラリッサさんは、そこしか見ていないんですよね」
義兄さんが優しいからって、そこに甘えているんです。
ルシェルが、アベルに代わって憤慨する。
「義兄さんはきっと、この街から出て行くつもりはないのでしょうが……」
「いきなり、なんの話だ?」
「私の呪文のサポートがあれば、安全に他の街に拠点を移すことだってできますよ」
私は、義兄さんの可能性を狭めるようなことはしません。
お互いの体温も吐息も感じられる距離で、ルシェルが誘惑する。
姉のように、クラリッサのように。
アベルのためだからと、別れを告げたりしない。
高い地位に就けようともしない。
アベルの意に沿わないことは絶対にしないと。
アベルはやりたいようにしていいのだと。
そのサポートは、自分が全部やってみせると。
理解しているけれど、期待を押しつけたりはしない。
ただ、自分を選んでくれれば、それでいいと。
アベルを甘やかし、とろけさす。
吸血鬼の視覚は、そのルシェルのとろんとして潤んだ瞳も、緩んだ表情も、赤らむ耳も、すべてを捉えていた。
思い出す。思い出してしまう。
血を吸った。初めて血を吸ったあのときのことを。
精神の高揚を。
全身で味わった甘露を。
牙が疼き、思わず唾を飲み込んでしまう。
「お分かりいただけたでしょうか、義兄さん?」
「……確かに、ルシェルと組まない理由もないし、ずっとファルヴァニアにいなくちゃならない理由もないか」
言われてみると、まったくその通り。
しばらく一人でやってきたからと及び腰だったが、優秀な魔術師とパーティを組めるチャンスなんてそうはない。
それが、秘密を共有して気心が知れたルシェルなら、なおのこと。
こんな騒動に巻き込まれてもなお、ファルヴァニアに固執しなくてもいい。ルシェルと一緒なら、別の街でも冒険者を続けることは――
『アベル! アベル! 家のことがあるではないか、家が。煖炉の部屋で、酒と煙草を飲むのであろう!』
頭に大きく響く念話に、アベルは意識を取り戻した。感じていた吸血衝動も、一瞬で消え去った。
そうだ。家だ。
家を買って、冒険者に復帰する。そう決めたばかりではないか。
それなのに、すぐぶれていいのか。いや、良くない。
「家を買うつもりなんだ」
「家ですか……?」
脈絡のないつぶやきに、ルシェルが困惑する。
しかし、それはすぐに歓喜。それも、望外の喜びに変化した。
「憶えていてくれていたんですね、義兄さん」
「え? あ、ああ……?」
あまりの豹変っぷりに、アベルは目を丸くする。
そんなアベルの困惑に気付かず、ルシェルはアベルの胸板に額を押しつけ、犬のように甘えていた。
『もしや、余が起爆させてしもうたのか……?』
引きはがすこともできず、かといって無責任に地下へ帰還することもできず。
アベルも、しがみつくルシェルをどうにもできず。
血でつながった親子は、二人揃って途方に暮れた。
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