ルシェルは、一度家を失っている。
ルシェルが、ファルヴァニア――人間の里へ出る前。まだ、エルフの里で暮らしていた頃の話だ。
姉エルミアは数年前に里を飛び出し、冒険者として身を立てていることは、時折届く手紙で
知っていた。
父も母も、あまりいい顔をしなかったが、手紙自体は喜んでいた。
それを、ルシェルは昨日のことのように思い出せる。
姉が、仲間――冴えない人間、ドワーフ、ハーフエルフの司祭――を連れて、里帰りをした日のことも。
ドワーフのゼイエルグは寡黙で、司祭のイェルクは真面目だったが、冴えない人間――アベルは酒好きで、軽薄にも感じられたが、ルシェルをないがしろにすることもなかった。
乞われるまま、姉のことを冒険者のことをいろいろ教えてくれた。
アベルが語る冒険譚は失敗談すら面白くて、夜遅くなるまで話をねだってしまった。
次の日、里は突如出現したジャイアントスパイダーの群れに蹂躙されるなどとは思いもせず。
エルフの里は半壊したものの、結果として、ジャイアントスパイダーの群れを撃退することはできた。
群れを操っていた、オーガの枯渇者を、エルミアたちのパーティが強襲したお陰で。
そして、アベルが自らの命を犠牲にしたお陰で。
その知らせを聞いたときの絶望も、ルシェルはよく憶えている。
幸いにも両親は助かったが、それ以外のすべてを失った。
ルシェルは、姉とともに人間の街へと出ることを選んだ。理由はいくらでもあったが、誰にも言えないけれど一番大きいのは、アベルと離れがたかったから。
馬車にアベルの死体を積み、姉やその仲間たちからアベルの話を聞きながら、ファルヴァニアに到着する頃には10日が経過していた。
蘇生の期限ぎりぎりにアルシア神の神殿へと駆け込み、生き返ったアベル。
そこから、彼の孤独な戦いが始まった。
蘇生費用を捻出するために装備を売り払い冒険者をやめたゼイエルグやイェルクはファルヴァニアを去った。姉も、生活のため森林衛士となった。
生き返ったアベルは、たった一人で取り残された。それでも、蘇生後の回復訓練に励み、冒険者への復帰を孤独に目指す。
あのアベルと同一人物かと疑問に思ってしまう程真剣で……苦しそうだった。
ルシェルは、聞かずにはいられなかった。
「どうして、そんなに頑張れるんですか?」
「そうだな……」
切り株に腰掛けて休憩していたアベルが、空を見上げる。
青い。難くなるほど青くてさわやかな空を。
そのまま、アベルはぽつりとつぶやく。
「まだ、取り戻せるからな」
「死んだばかりなのに? また、同じことになるとは思わないのですか?」
「そりゃそうだが……」
世間知らずな小娘の戯れ言。
そう切り捨ててもいいだろうに、アベルは真剣に答えを探す。
「だからといって、簡単に諦めていいもんでもないからな」
ルシェルは思った。
これは、自分に向けられた言葉だと。
家も、家族も、取り戻せる。
諦めなければ、新しく作ることだってできる。
アベルは、そう自分のことを元気づけようとしているのだと。
だから、アベルがエルミアを選んだときは、嬉しかった。心に、小さな棘が刺さっていたけれど。
アベルとエルミアが別れたときは、哀しかった。でも、これで終わりではないとも思った。
自分ならきっと――
「……と、まあ、早足ですが、経緯としては概ねこんなところです」
アベルが家を買うと言った途端に、いきなり感極まってしまったのはなぜか。
マリーベルしか聞けない問いに、ルシェルは回想を交えながら語った。
それを聞いたアベルは、いや、マリーベルも、なにも言えない。
だから、念話で語り合う。
『おい、そこな不肖の息子』
『これはさすがに、俺も気付いた』
『完全に手遅れじゃがな』
『いや、そんなことは……』
『ほう。では、言うてみい、言うてみい。家を買うけど、部屋を用意するつもりはないと言うてみい』
『マリーベルの部屋は用意する予定だって、言ってもいいんだぜ?』
『死なばもろともか!?』
深刻。
そう、事態は深刻だ。
またしても、マリーベルは頭を抱えた。心なしか、胃がしくしくする。
いや、まさか。そんなはずはない。気のせいだろう。デュドネ家の生き残りである吸血鬼の王が胃痛などありえない。
ありえないが、アベルにはしっかり釘を刺しておかねばならない。
『死ぬなら死ぬで、もう少し周囲への影響を考えて死なぬか!』
『そんな器用な真似できるかよ!』
『そもそも、依頼の最中に死んだとしか聞いておらぬぞ。なんじゃ、この英雄的自己犠牲。本当にアベルの話か?』
『エルミアの里を救うための戦闘で死んだとか、聞かれもしないのに恥ずかしくて言えるか!』
そのリアクションからすると、どうやら本当にルシェルが語ったとおりの事実は存在したらしかった。
ただ、以前聞いた話と考え合わせると、アベルとしては里のために犠牲になったと言うよりは、仲間が死ぬところを見たくなくて死んだということのようだが……。
同じ事実でも、受け取り方は様々なのだ。ルシェルが素朴な想いをこじらせてもおかしくない。
事情は分かったが、マリーベルは、まだ言い足りない。
『だいたい、冒険者を止める寸前だったではないか。なにが、簡単に諦めていいもんでもないからなじゃ。ばーかーばーかばーか』
『よし分かった俺が悪かった。頼むから、理性と知性は捨てないでくれ』
この状況――相変わらず、ルシェルはアベルの膝に乗っている――を切り抜けるには、二人の知恵が必要だ。
アベルの懇願に、宙に浮いたままだったマリーベルが正気に戻る。
ルシェルでこれだ。
残るエルミアからは、どんな告白が飛び出すか知れたものではない。
まずは、ここを穏便に切り抜け、すべての情報を集めてから抜本的な対策を取るべきだろう。
『仕方あるまい。家の件は、クラリッサに相談済みとでも言うしかなかろうよ』
『それで、ルシェルは納得するか……?』
『するしないではない。事実として押し通せ』
マリーベルの無茶振りにアベルは難色を示したが、現実問題として、他にどうしようもない。
意を決し、相変わらず抱きついているルシェルを引きはがして、正面から見つめた。
「まあ、あれだ。家の件はクラリッサに頼んでいるからな。ルシェルの手を煩わす必要はないぞ」
「なぜそこで、クラリッサさんが?」
「俺は昼間動けないからだよ。なにかと不自由だろう?」
「なるほど」
理由を聞いて、ルシェルはしっかりとうなずいた。金糸のような髪が、その動きに合わせて揺れる。
どうやら理解してくれたようだ。
しかし、アベルの安心は長くは続かない。というよりは、すぐ終わった。
「そこは、私がクラリッサさんとお話ししましょう」
「いや、その必要は……」
「あります」
力強く、ルシェルが断言した。
「わざわざ言うまでもないことですが、ファルヴァニアに残るとなれば、どこに居を構えるかは重要なファクターとなります」
名残惜しそうにアベルから離れながら、先ほどまでのプレゼンテーションと同じように持論を展開する。
「南に大森林、西に大平原、北に第山脈。そして、東にスカイドワーフ遺跡群。冒険の舞台に事欠きませんが、どうせならメインの攻略対象に近い位置に家を構えたいですよね?」
「それは、まあ、確かに」
かといって、ギルドと離れすぎるのもそれはそれで面倒。
「となると、義兄さんのパートナーである私が、クラリッサさんと相談することになんの問題があるでしょう?」
パートナー。
さっきも聞いた言葉だなと、アベルは笑った。
薪よりもずっと乾いた笑顔で笑った。
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