「それで、どうするつもりですの?」
「やり返す」
以前のアベルの定宿――出たばかりで、まだ空き部屋だった――に転がり込んだ二人。
宿の主人からすると、エルミアやルシェルの目を盗んでアベルがクラリッサを連れ込んだようにしか見えない。
多めに払われた宿代も、それを裏付ける。だが、二人とも気付かない。
クラリッサが気にしているのは、ここが、人目を避けるという意味ではともかく、戦闘には向かない点だ。
「確か、『孤独の檻』でしたよわね? 確かに、見知らぬ場所に逃げ込むわけにはいかないのは分かりますけど……」
「ギルドじゃ、血制を使えねえからな」
微妙に噛み合わない会話。
加えて、クラリッサの懸念を余所に、アベルは手首を掻ききった。
血が流れ、血溜まりを作る……ことなく、粒子状になって開け放った窓から飛び出していく。
「《霊覚》」
以前、シャークラーケンに追われるルストたちを見つけるために使用した、血制。
拡散する血の一滴一滴が、もうひとつの目となってアベルへ情報を送り込んでくる。
精査も取捨選択もされていない、素の情報そのものを。
アベルの脳内で、外の風景が猛スピードで流れていく。
「くっ……」
相変わらず、厳しい。頭痛がする。目の奥が熱い。
しかも、今回が下水道のような閉鎖空間ではなく、ファルヴァニアの街そのものが対象。
そこから、アベルたちを付け狙う怪しい人間を探し出さねばならない。これは、かなりの難事だった。
「アベル、大丈夫ですの?」
「あ、ああ……」
傷のことを言っているのか。それとも、頭を押さえて苦しみだしたことを言っているのか。
どちらかは分からなかったが、アベルは適当に返答した。今は、それどころではない。
血の一滴一滴が送ってくる大量の情景を、脳内でめまぐるしく展開しながら敵を探す。すでに、離脱しているかもしれない敵を。
「無茶をするんですから」
少しでも落ち着けばと願いを込めて、クラリッサはアベルを抱きしめた。
豊満な褐色の膨らみにアベルの顔を押しつけ、あやすように髪を撫でる。羞恥心に顔は歪み、大胆さに身もだえしそうになるが、クラリッサは耐えた。
他になにもできなかったし、なにより、アベルは拒否をしなかった。それが、クラリッサを大いに勇気づける。
一方、それどころではなかったが、羞恥心を感じているのはアベルも同じだった。
それでいて、心地よさもある。
クラリッサに抱きしめられ、体温と柔らかさを感じ、頭痛が和らいでいくのを感じる。目の充血も、収まりつつあった。
そして、思考もクリアになる。
「……見つけた」
警告か、殺しに来たのか。意図は分からなかったが、やはり、追ってきていた。
宿が面する通りの先。暗がりに、フードを目深に被り、マントで体を覆った男が潜んでいた。
見事な隠密で、発見まで時間がかかった。
そして、宿の裏口には、軒先にコウモリがつり下がっていた。偶然にも、アベルの部屋のすぐ下。
また、いるのはただのコウモリではない。魔術師の使い魔としても使用される、ジャイアント・バットだ。
「すぐに仕掛けてこないってことは、俺たちのねぐらを探すつもりらしいな」
「それは……」
アベルを抱きしめたままのクラリッサが絶句する。
この宿がねぐらなら、それで良し。他に拠点があるのであれば、相手はそこも襲撃するつもり。
アベルは、そう言っているのだ。
「安心しろ。させやしねえよ」
じくじくとした痛みをこらえながら、アベルは笑った。いつになく、粗野で獰猛な微笑みだった。
痛むのは、《霊覚》のための傷口ではなく、ボルトで射られた腕。
なにか仕掛けがあったのか、再生が遅い。
吸血鬼になってから、痛みに強くなったはず。それなのに、クロスボウのボルトは、鮮烈な痛みをアベルへ送り込んできた。
戦闘に支障があるほどではないが――無性にイラつく。
「俺と、クラリッサでなんとかする」
「わたくしも、ですの?」
アベルに頼られた。
クラリッサは、驚きと同時に奇妙な高揚を憶える。
「ああ、一気に反撃だ。やり返さなきゃ、舐められるからな」
「物騒ですわね……」
今まで見たことがないほど野性的なアベルに、クラリッサは戸惑う。それでいて、心臓の高鳴りが抑えられない。
アベルはそれに気付かず、抱きしめられたまま笹穂型の耳に唇を寄せ、即席の作戦を伝える。
シンプルで、出たとこ勝負な作戦を。
「……責任重大ですわ」
「やれるか?」
「やりますわ」
しっかりとうなずいたクラリッサに、アベルはショートソードを手渡した。
それをぎゅっと握ったのを確認すると、豊満だが細い体を逆に抱き上げる。まだ、《霊覚》は維持したまま。
「行くぜ」
返事を聞かず、アベルは窓から飛び下りた。
思わず目を閉じそうになるが、クラリッサは意識してこらえる。アベルに抱かれているという状況も、意識して思考から追い出した。
内臓が浮き上がるような、地に足がつかない浮遊感。
そんな中で、視線を宿の側に固定し、標的を探す。
――いた。
「やあっ!」
充分な体勢ではなかったが、手首をしならせショートソードを投射した。
銀色の輝きが真っ直ぐに飛び、軒先につり下がっていたジャイアント・バットを射抜く。
かつて受けた戦闘訓練に投擲も、もちろん含まれていた。
成算はあったが、それを越える。クラリッサ本人ですら驚く、見事な投擲。
実力以上のものが出せたとしたら、それはアベルを傷つけた襲撃者への憤り以外にない。
それをぶつけられたジャイアントバットは抵抗ひとつできず、壁に縫い付けられた。そのあとは、もう、ぴくりとも動かない。
「アベル、やりましたわ!」
「よくやった!」
地面に降り立ったアベルは、クラリッサを解放した。
「《剛力》」
そして、まきびしの入った袋を、全力で投擲した。
適当に放り投げたように見えるが、それは誤り。《霊覚》を維持したままのアベルには、相手の姿がよく見えている。
ぶんっと、風鳴りがした。
それは、宿を飛び越え、玻璃鉄の街灯で照らされたファルヴァニアの街に放物線を描いて飛び、フードの襲撃者の眼前に迫った。
不意に、しかも高速で放たれた攻撃。
襲撃者は、撃ち落とすというハイリスクな選択は取らず、素直に横へ避けた。
そのタイミングで、まきびしの入った袋が裂ける。
血制によってスピードに乗ったまきびしが、雹のように降り注いだ。
フードを突き破り、マントを貫いて襲撃者の肉体を斬り裂く。《剛力》により、まきびしはこの上なく鋭利で危険な刃となったのだ。
一瞬の躊躇も、苦しんだ様子見もせず、襲撃者は逃げ出した。
アベルは、《霊覚》で追跡すべきか、逡巡を見せる。だが、ここまで長時間、《霊覚》を運用したことがない。
限界だった。
「……こっちも撤退しよう」
「一体、何者だったんですの、あれは」
分からない。
だが、やられっぱなしではない。
とりあえずは、それで良しとすべきだった。
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