持てる全力を叩き付け、なんとか一矢報いたアベル。
完全に緊張の糸が切れ、その場にへなへなと崩れ落ちた。
指一本動かすのも、億劫だ。
彼女は、そんなアベルから、あられもない姿のマリーベルへと視線を移した。
「吸血鬼マリーベル・デュドネ」
「……はっ」
呆然と、アベルの偉業を見守っていたマリーベルが、我に返った。
改めてひざまずき、自らの惨状に顔をしかめる。
アベルに引き千切られたドレスを直す……ことはできないので、《影惑》の血制を応用し、破れたり汚れた部分に影を纏わす。
せめて見苦しくないように取りつくろえたはず。
今は、これが精一杯。
けれど、それは取り越し苦労。
彼女が、そんなことを気にするはずもない。
「長きに渡る封印、ご苦労だった」
頭を垂れるマリーベルに近づき、ねぎらいの言葉をかける。
自ら封印をしておいて、なにを言うのかと思うかも知れない。実際、傍観者となったアベルは思った。
なのに、その態度が当然と思ってしまう。
まさに、神の風格。
「イスタスの名において、封印を解こう」
「ありがたく」
「清く……は難しくとも、正しく生きることを希望する」
「必ずや」
吸血鬼の王は誓った。
地上から悪を駆逐した主神に倣い、善の道を歩むことを。
「うむ。なかなかに楽しい一時であった」
彼女は輝く美貌に満足げな表情を浮かべ、嬉しそうに笑った。
それは、アベルとマリーベル。
二人が成し遂げた、もうひとつの偉業。
信仰心を持ち合わせていないアベルですら、感激してしまいそうになる。
「それでは、さらばだ」
「深く、心より感謝いたします」
マリーベルの言葉にうなずくと同時に、彼女の全身が光の粒子に包まれた。
否、彼女の体が、光の粒子となっているのだ。
役目を終えた分神体が、消えようとしている。
散々な目に遭わされたアベルだったが、実際に目の当たりにすると、感慨深いものがある。
いや、あった。
「おっと、その前に」
なにかを思い出したようにぽんっと手を打ち合わせると、光の粒子が消え去った。
マイペースというか、いろいろ台無しだ。
「これを渡しておこう」
彼女がどこからともなく取り出したのは、一本のガラス――否、玻璃鉄の瓶。
「魔法薬……ですか?」
「うむ。レンが作った物だ。効果は保証するぞ」
「レン……薬神レン!」
アベルが、思わず叫び声を上げた。
薬神レン。
ポーションやエリクサーのレシピを広め、薬草の効能などの知識ももたらした。なぜか、竜王の称号を持つ勝利の神ヨナとセットで語られることが多い、ハーフエルフの神。
その神が手ずから作り上げたポーション。どれほどの力を秘めているのか、想像もつかない。
「というか、気軽に神さまの名前が出てくるのがすげえ」
「ふふん。私の仲間は、すごいのだ」
自分が誉められたよりも嬉しそうに、彼女は胸を張った。残念なことにややピントがずれていたし、マリーベルには遥かに及ばない胸だったが。
「ありがたく、頂戴いたします」
「うむ。では、今度こそさらばだ」
マリーベルにポーションを手渡すと、彼女が、再び光の粒子へ変わっていった。
もう、それが止まることはなく。
薄闇の世界に溶けて、完全に消えてしまった。
あとには、鏡のようなものが残った。
だが、この世界の光景を映してはいない。その向こうに見えているのは、アベルたちがやってきた下水道の景色。
この封印の地から脱出するための、次元門。
あれをくぐれば、ファルヴァニアへ戻ることができるのだ。
「主神って、あんなキャラだったんだな……」
神は去り、帰還の目処は立った。
緊張が解けると同時に疲労感に襲われ、アベルは大の字になった。
そのアベルを飛び越えて、男装の執事が主の胸へと飛び込んでいく。
「お嬢様っ」
「良い。大事ないわ」
「肝心な時に役に立たず、申し訳ございませんでした」
「相手が相手だ。無事であることを喜ぶべきであろうな、お互いに」
数百年の封印を乗り越えた主従の抱擁。
なんとも、感動的な光景だ。
それを横目で眺めつつ、アベルは大きく息を吐いた。
一件落着……とはいかないが、めでたしめでたし。
『やっと喋れる』
「うわっ、スーシャ」
――とは、いかなかった。アベルにとってもマリーベルにとっても残念なことに。
『空気読んでずっと黙ってた スーシャにとってはかなりの偉業』
コフィンローゼスから出てくることなく、念話で自画自賛するスーシャ。
その意図は、明らかだった。
「分かったよ。できるかぎり、善処するからよ」
『話の分かるご主人様好き』
ご褒美の確約を得て、満足げなスーシャ。
その滑らかすぎるやりとりに、ウルスラと抱き合っていたマリーベルが疑問を呈す。
「なんだか、悪化しておらぬか? 余のおらぬ所で、なにがあった?」
『吊り橋渡った』
確かに、次元航行船での一件は、吊り橋効果を発生させた。
スーシャが自らを犠牲にして、エレメンタル・リアクターの暴走を抑えたことなど、その最たるものだ。
しかし。
「自分で言うかぁ、それ!?」
この辺りが、いかにもスーシャであった。
「まったく……。仲良くするのは良いが、スーシャも、多少は控えよ」
『大丈夫スーシャはご主人様のペットだから』
「まったく大丈夫ではなかろう?」
『大丈夫ご主人様を取ったりはしない』
「そんな話はしておらんわー!」
大きなマリーベルが、小さなマリーベルのように叫ぶ。
ギャップしかない光景だが、アベルにとっては、馴染む光景だった。
しかし、和やかな雰囲気は長くは続かなかった。
『ところでマリー』
「なんじゃ」
『ご主人様の血の花嫁になってどんな気持ち』
ぴしりと、マリーベルが固まった。
なにかを感じ取ったのか、ウルスラがすすすっと距離を取る。
「別に、なんともないわ」
『へー』
「そうだぞ。他に、どうしようもなかったしな」
「アベルは黙っておれ」
『ご主人様は黙ってて』
「俺の扱い悪くねえ!?」
思わず抗議の声をあげるが、冷静に考えると今さらだった。
むしろ、渦中から逃れられる分だけましとも考えられる。
アベルは起き上がり、ウルスラの隣に陣取った。
そこで、神が去った世界の成り行きを見守る。
端から見ると、マリーベルが一人で棺に語りかけるという、かなり意味不明な光景なのだが。
『でもエルミア奥様たちにはどう説明するつもり?』
「どうもこうも、別に言う必要はあるまい?」
『マリーそれはずるい あとどうせご主人様がうっかり言っちゃう』
「それも、そうじゃな……」
「ええぇ……。なんだよ、その信頼感」
「当然かと」
味方がいなかった。世界はこんなに広いのに、どこにも。
「確かに、先に血の花嫁を希望しておったエルミアには悪いことをしたと思わなくもないがの……」
『ならちゃんと説明しないとダメダメダメダメ』
「くっ。スーシャから正論で諭されるとは」
大きなマリーベルが、悔しそうに膝を屈する。
「マリーベルお嬢様」
そこに、ウルスラが手を挙げた。
「お三方への説明は、私めにお任せを」
「ウルスラ?」
「この度は、まったく役に立てませんでしたので、これくらいは」
「まあ、ウルスラなら大丈夫じゃないか?」
「……そうじゃな」
当事者が直接話すよりは、角に立たないかもしれない。
他に妙案もなく、マリーベルはウルスラの提案を承認した。
『話は決まったからそろそろエルミア奥様たちと合流しないと』
「そうじゃ。狩人の相手をしておるのであろう? どこで落ち合う予定なのじゃ?」
「ああ、それなら焦る必要はないぜ」
アベルは、彼女が残した次元門を見ながら言った。
「こっから出たら、すぐだ」
事前に打ち合わせた、合流場所。
それは、ファルヴァニアの地下。下水道のある場所だった。
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