エルミアが目覚めたのは、さらに、半日ほど経過してからのことだった。
ルシェルとアベルが見守る中、エルミアは気怠げに体を起こす。
「そうか……」
手元に視線を落とし、手を握っては開きながら、エルミアは混濁した経緯を整理し、断絶した記憶を反芻する。
そうすることで、次第に、事実が全身に浸透していくのを感じた。
「私も……吸血鬼、か……」
「姉さん!」
ベッドの上で苦笑するエルミアに、ずっと付き添っていたルシェルが飛びついた。
押しつぶしてしまうかもしれない。そんな心配は、意識の外。思いが溢れ、加減などできなかった。
「もう、いつまで寝ているんですか」
「ああ……。心配をかけてしまったな」
エルミアはルシェルを抱き留め、優しい手つきで髪を梳く。
アベルに噛まれた直後の焼き直しのよう。
つまり、その時と同じぐらいルシェルが不安を感じていたという証左でもあった。
姉妹愛の美しい発露を目にしたアベルは、静かに二人を見守る。
ただし、念話は別だ。
『おっと、スーシャはなにも喋るなよ?』
『スーシャの扱いに慣れてくれてスーシャは嬉しい』
『喜ぶのはいいが、改善の――』
『ご主人様をスーシャ色に染める喜び最上級』
『――努力をするつもりがないことがよく分かった』
まあ、アベルで汚染を食い止めている。
そう思えば、自分の犠牲も無駄ではない。
そもそも、今回に限ってコフィンローゼスを持ってきてしまったのが失敗だったような気もするが、そこからはあえて目を背けるアベルだった。
水面下のやり取りに気付かず、ルシェルをあやしながら、エルミアがアベルに微笑みかけた。
「アベルにも、心配をかけて済まなかった」
「俺はいいさ。代わりに、あとでクラリッサにも一声掛けてやってくれ」
こちらの世界では夜だが、外の世界では昼間。
エルミアを心配して後ろ髪を引かれていたクラリッサだったが、ギルドの受付嬢にしかできない仕事がある。というより、満載だ。
そのため、クラリッサは冒険者ギルドへ出勤。
ローティアも一旦巨人の坑道へと戻り、クルィクは元の大きさに戻って館の外で待機中。
館にいるのは、この三人だけだった。
「そうか、クラリッサも……。思っていた以上に大事になってしまったな」
「そりゃそうだ。吸血鬼に、なったんだからな」
答えつつ、アベルは自分の時のことを思い出していた。
「俺の場合は、マリーベルがいきなり太陽の光を浴びせて自覚させられたぐらいだし。それに比べたら、大人しいもんだ」
「無茶をする」
本能的に恐怖を感じたのか。エルミアは少しだけ体を震わせた。
「今、館の世界は夜ですから心配ないですよ?」
「ああ。いや、すまない」
抱きついていたルシェルが敏感に察し、安心するように姉へと伝える。
エルミアは、大丈夫だと、妹を軽く抱きしめた。
アベルとしては軽い笑い話だったのだが、不安を与えてしまったことに反省する。
だが、それを見せれば気を遣わせるだけなので、話題を切り替えた。
「まあ、その前に、体の調子がいろいろ良くなったってのもあったけど……」
「なるほどな。寝起きだが、その部分では、特に問題はなさそうだ」
「そういうのじゃないんだが、まあ、いいか」
アベルの場合、腰痛など体にがたが来ていたところが吸血鬼化で改善された……というよりは、治ったというほうが実態に近いか。
体の経年劣化が起こっていないエルミアでは、恩恵と自覚も薄い。
「とりあえず、なんともないのなら、それが一番だ」
「いや、そういうわけでもないのだ」
ルシェルを解放し、エルミアはアベルをじっと見つめる。
「なにか問題があるのか?」
「ああ……。問題というか、なんと言うべきか……」
「ん? なんでも聞いてくれ」
言いにくそうにしているエルミアの様子を敏感に察し、アベルは話を促した。
「アベルは、その、なってすぐに血を吸いたくなった……のか……?」
「いや……」
実のところ、渇きを感じたことはほとんどなかった。
他の欲求に付随して、血を欲したことはあるが、血を吸いたくなったのとは少し違う。
「そういう欲求を憶える前に、モンスターから血――命血を補給する方法を教えてもらったしな……って」
まさかという顔をして、アベルはエルミアを見つめる。
「血が吸いたいのか……?」
「……恐らく、そうなのだと思う」
エルミアが恥ずかしそうに目を伏せ、薄い胸に手を添えた。
鼓動を確かめるというよりは、まるで、飛び出そうとするのを押さえるかのよう。
「俺からは……吸えないんだよな」
血の花嫁という特別な関係にならなければ、吸血鬼同士で命血のやりとりはできないと聞いている。
血の花嫁になる方法は、まだ教えてもらっていない。いや、知っていても、間に合わないだろう。
「分かりました。私から吸ってください」
この告白をする前に、エルミアが遠ざけた意味を理解していても、なお。
ルシェルが、暗さを感じさせない快活さでアピールした。
「というより、反論はなしです。他に選択肢はありません」
「くっ。う、うむ……」
先回りされ、エルミアはなにもいえない。
アベルも、賛成しづらいが、ルシェルの言葉を認めざるを得なかった。
そもそも、血を失った吸血鬼がどうなるのか。
幸いにして切れたことがなかったため、アベルにもどうなるのか分からない。マリーベルからも、聞いていない。
『ろくなことにはならない』
『だよな』
スーシャにも後押しされ、アベルはエルミアの手を取った。
「エルミア、我慢をしてもいいことはないぞ」
「そうですよ」
「……すまいない。いや、ありがとう、ルシェル」
エルミアが、再びルシェルを抱き寄せる。口の端しから、白くとがった牙が覗いた。
妹エルフは姉に身を任せ、白いうなじをさらした。
そこへ、控えめに。
しかし、ためらうことなく牙を突き立てた。
つぅ……っと紅い雫がうなじを垂れ落ち、エルミアの喉が鳴る。
エルミアは、大きく目を見開いた。
驚きに。そして、喜びに。
さらに深く牙を突き立て、エルミアは休むことなく血を嚥下していく。
情熱的だが、不器用な吸血。
自分もこんなことをやっていたのかと、アベルは目を離せない。
「姉……さん……」
一方、息も絶え絶えといった様子のルシェル。それでも、エルミアを拒絶しない。
だが、顔色が紙のように真っ白く担っていく。傍目には無理をしていることが明らかだった。
アベルの吸血では、こんな姿を見たことがない。
もう、限界だ。
「エルミア」
アベルは、エルミアの肩に手を置いてぐっと引き離そうとする。
だが、吸い付いたまま動かなかった。
華奢な体にもかかわらず、意外なほど力が強い。これも、吸血鬼になった影響だろうか。
「エルミア」
「……ああ……すまない……」
夢見心地で、エルミアがルシェルから離れる。
そのエルミアにルシェルがもたれかかり、二人揃って目を閉じた。
すぐに、安らかな寝息が聞こえてくる。
「二人とも、寝た……のか……?」
寝たようだ。
アベルは、起こさないよう慎重にエルフの姉妹をベッドに横たえる。
再びベッドの脇の椅子に腰掛け、深呼吸。
「しかし、俺の時と違うのは、どうしてなんだ……?」
男女の違いか。
それとも、マリーベルとアベル……親の違いか。
『たぶん才能』
『才能?』
突然のスーシャからの念話だったが、それ以上に、内容に驚かされる。
『才能って、なんのだよ』
『ご主人様は吸血鬼の才能があった』
『吸血鬼の才能?』
初めて聞いた言葉だ。マリーベルも、そんなことを言っていなかった。
『たまにそういう人間がいるらしい』
スーシャが言っているのは、エルフやドワーフ。岩巨人に草原の種族なども、含めた意味の人間だ。
『それ、ものすげー役に立たねえ才能だな』
『そんなことはない なってからでないと分からなくて普通は知らずに死ぬだけ』
『ええぇ……。最悪じゃねえか……』
神が人に与える才能には、限りがあるという。
その限りある才能という枠に、吸血鬼の才能が存在していたら……。
それは、残念という言葉では言い表せないぐらい、残念だ。
マリーベルに出会う前のアベルが、まさにそうだったのだが。
『せめて相性が良かったとか、その辺にまからねえか?』
なんというか、そんな才能を持っていたと言われても嬉しくない。本当に。心の底から。
『つまりマリーベルと相性が良かった?』
『いや、吸血鬼全般と』
『ご主人様それ吸血鬼の才能に恵まれたよりマシ?』
鋭い指摘に、アベルは腕を組む。
マシかどうかで言えば……。
『あんまり変わんねえなぁ』
『そうそう それに才能あるご主人様でスーシャはうれしい』
『スーシャはなんでも喜ぶじゃねえか』
『それもこれもご主人様だから』
そこで妙に健気なことを言われても困ってしまう。相手はスーシャなのだ。騙されてはいけない。
『この念話、これからはエルミアも加わることになるのか……』
再び眠りに落ちたエルミアの顔を眺めながら、アベルは思う。
仲間外れにしたいわけではないが、それはなんというか、止めておきたかった。
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