時の流れは、誰にも分け隔てなく公平だ。
太陽の光は地上に等しく降り注ぎ、アベルの定宿にも朝がやってきた。
狭い。くつろぐのではなく、寝ることだけに特化した部屋。家具と呼べるのは、小さなベッドと荷物を保管するチェストしかない。
ガラスがはまった窓はあるがはめ殺しで、カーテンのつもりだろうか。窓にかかった布は、いかにもみすぼらしい。
機能的と言えなくもないが、真っ当な人間なら長居をしたいとは思わない部屋だ。
その意味では、アベルにふさわしいかもしれない。
40を前にしても冒険者を続けているような男は、真っ当な人間とは言えないだろうから。
「あー。ああ……朝か……。朝になっちゃったか」
若い頃に比べて張りのなくなった、いがらっぽい声。
目覚めから否応なしに現実を突きつけられ、アベルは顔をしかめる。
だからというわけではないが、アベルはなかなか起き上がろうとしなかった。
「たまには惰性を吹き飛ばして、夜を二日続けるとか、昼から朝を始めるとか。そういう、反逆をできないものなのかね? ルーティーンをこなしただけで仕事してる気になってないか、太陽」
その本人が惰性に任せるまま、狭く堅いベッドを左右に転がること数分。
薄い毛布を蹴ったり、かぶったりしながらロスタイムをたっぷりと味わい。
「いー、よっと」
ようやく、気合いを入れて半身を起こした。
仕方がない。こうしないと、起きた瞬間に腰の痛みで悶絶することになるのだから。
「ふう……。相変わらず、体が固まってやがんな」
若い頃から無理をし続けた体は、すぐには目覚めない。
こきんこきんと首をほぐしつつ、順番に肩を回して体を温める。こうでもしないと、腕がまともに上がらないのだ。
堅いとはいえ、ベッドで寝てこれだ。若い頃は、毛布一枚にくるまって野宿してもなんの問題もなかったというのに。
「あーあ。年は取りたくねえなぁ、ほんと……」
若いということは、それだけで素晴らしい。
そして、失ってから初めて気付き、その時には手遅れなのだ。
最後に大きく体を伸ばし――
「いっ、てててっ」
――腰と腹筋の辺りに痛みを感じ、思わず息が詰まる。
「ぐっ、《キュア》、《キュア》!」
アベルは、反射的に癒やしの技能を使用してしまった。淡いピンク色の光が幹部を包み、痛みが休息に消え失せていく。
しかし、アベルは神官というわけではない。
「あー、畜生。思わず、使っちまった……」
世界を再構築したヴェルミリオ神の祝福は、すべての人間にあまねく降りいでいる。そのため、生命の属性を持つアベルは、癒やしの力を行使できるのだ。
「今日は、後もう、二回しか残ってねえじゃねえか」
もちろん、使用回数の制限はあるので、しっかりと計画的に使用する必要はあるが。
誰にともなく――強いて言えば、自分にか――悪態を吐き、アベルは井戸のある宿の中庭へと歩き始めた。
憂鬱そうというよりは、心底だるそうに。
最低限の身支度を調え、ライ麦パン・ベーコンとジャガイモのオムレツ・エールの朝食を終えたアベルは、冒険者ギルドを目指して一人道の端を歩いていた。
くたびれたレザーアーマーを身につけ、武器は腰に吊るしたショートソードが二本。
バックパックに収められているのは、ロープ、水袋、たいまつ、火口箱、手鏡、小型ハンマー、くさびといったいわゆる冒険者セット。
そして、ベルトポーチには、七つ道具と補助的に使われる現金などの貴重品。
唯一華やかさを感じられるのは、右手の薬指にはめた指輪。アベルが生命属性であることを示す、アンバーの属性石を加工した物だ。
これがアベルの全装備であり、自らの肉体も含めれば全財産でもあった。
冒険者が多いこのファルヴァニアの街では、やや猫背気味に雑踏を歩くアベルは目立つ存在ではない。似たような人間は、石を投げればぶつかるほどいる。
だが、ロートルとはいえ、ベテランでもあるアベルは足音をほとんど立てず、無駄に存在感を示すこともなく街の風景に溶け込んでいた。
実際、彼に注意を向ける人間はほとんどいない。
地味ではあるが、一朝一夕で可能な身のこなしではなかった。最近は、あまり長続きしないのだが。
「アベル!」
その彼を呼び止める、銀の鈴を鳴らしたかのような美声。
冒険者として訓練された聴覚が朝のざわめきから的確に拾い上げ、アベルは反射的に立ち止まり……即座に後悔する。
「エルミアかよ……」
振り返り、彼女の姿を目にする前に名前をつぶやいていた。
朝日を受けてきらきらと輝く金糸のような美しい髪。そこから延びる、笹穂型にとがった耳。
金色の髪を動きやすくポニーテールにまとめているため、うなじが露わになっている。きちんと手入れされたパデッドアーマーの隙間から、エルフ特有の白い肌が艶めかしく顔を覗かせていた。
愛用の弓を肩に背負い、飼い主を見つけた犬のように駆け寄ってくるエルフの美女。
エルミアを見るアベルの目には、一言では言い表せない感情が宿っていた。
かつて、冒険者としてパーティを組み。
そして、一時は運命をともにしていた女性。
エルミアは、何年経っても変わらなかった。
アベルは、すっかりくたびれてしまったというのに。
「森林衛士様が、俺なんかになんの用事だよ?」
不躾な言葉を投げかけられ、エルミアの笑顔が泣き笑いのような形容しがたい表情に変わった。森の緑を思わせる碧綠の瞳に、哀しみが宿る。
しかし、それはほんの一瞬。すぐに元の笑顔に戻った。
アベルの胸に、罪悪感が去来する。
(あー。ったく、ガキか俺は)
これでは、自分と別れ、領主に仕える衛士として安定した生活を手にした元妻に嫉妬しているようにしか見えない。
そんなつもりはなかった。
法と公平を司る主神イスタスに誓って、決してわざとではない。
けれど、一度出た言葉を取り消すことはできないのだ。
「あ、アベルはこれからギルドか?」
「ん? ああ」
余計なことを言わないよう、アベルは短く答えた。
そうして、話をするよう視線で促す。
この辺りは、苦楽をともにしたかつての冒険者仲間だ。アイコンタクトで通じ合い、エルミアは言いにくそうに口を開く。
「実は、相談があるのだがな」
「……相談ねぇ。俺にアドバイスができるとは思えないけどな」
「なんというか、こう、実は、あれだ、同僚から、食事に誘われていて……な?」
恥ずかしそうに、エルミアは切り出した。
昔、アベルへ向けていた感情を美貌に浮かべて。
「男……か……?」
「ああ……。そう、そうなのだ」
エルミアは、碧綠の瞳をまっすぐ向けうなずいた。
アベルは、思わず目を背けた。
「別に、好きとかそういうわけではないのだが、何度も断るのも、こう……な……?」
未練はあるはずだ。うぬぼれでなければ、お互いに。
泣いてすがって懇願すれば、その男からの誘いなど断ってくれるだろう。
しかし、アベルにはそれを口にすることはできなかった。
意地があるのだ。
こんなに落ちぶれても。いや、落ちぶれたからこそ。
最後の矜持だけは捨てられない。
「そいつは、俺が、どうこう言える問題じゃないんじゃなよな?」
「それは……。そう……かも、しれない……が」
「いい男なら誘いを受けてみればいいんじゃねえか? もし、俺みたいに駄目な男なら断るべきけどよ」
「アベル! 私は……ッ」
「悪りいな。もう、行くぜ」
穏やかとさえ言える微笑を浮かべ、アベルはその場から足早に立ち去った。
エルミアの手がその背中を掴むように伸ばされ、しかし、なにも捕らえることはできずにだらんと垂れ下がる。
思えば、いつもそうだった。
別れると決めた時から、そうだった。
二人の歯車は、なかなかかみ合ってくれない。
子供でもいたら、また違う道が歩めたのだろうか。
そんな馬鹿げた思考が過り、アベルは口の端だけを上げて笑う。それは、自分自身に向けた嘲笑だった。
道などひとつしかない。
「俺が歩める道なんて、この冒険者ギルドに続く道しかないのによ」
そう、決まっているのに。
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