「これがスーシャって人……吸血鬼か」
「うむ。懐かしいのう……」
ハルバードの残骸を放置してマリーベルの隣に移動したアベルが、壁にかけられた肖像画を見上げた。
優しげに微笑み、子犬を抱いている少女。
淡い水色の髪は目元まで伸び、同じく色素の薄い瞳を覆い隠している。十代半ばほどだろうが、実際の年齢は分からない。
顔が半ば隠れているような状態だが、気品は隠しきれない。
花がほころぶような笑顔を浮かべる儚げな彼女は、まさに、お姫様そのものだった。
マリーベルの親友で、クルィクの本当の飼い主で、このスヴァルトホルムの館の女主人スーシャ・スヴァルトホルム。
「確かに、さっきのゴーストとは似ても似つかねえな」
「だから、別人だと言うたであろう」
それは喜ばしいことだが、そうなるとまた別の疑問が湧いてくる。
「別人だとすると、あのゴーストの来歴が気になるところだが……」
「あの様子では、ご本人が解説してくれるとは思えませんね」
「もし野良ゴーストだとすると、どこかの部屋に過去のヒントが……なんていう望みも薄いですわね」
肖像画の前に全員が集まり、自然と、先ほどのゴーストが話題の中心となる。
撃退はしたが、倒すには至っていない。館の探索中に、再び遭遇するだろうことは明らかなのだから、当然だった。
「スヴァルトホルムの血族の誰かという可能性は考えられるが、恐らくは、館を守護するガーディアンなのではないかの」
「ガーディアン? あれが?」
確かに、侵入者を排除する行動を取ってはいる。
けれど所詮それは結果論で、悪霊が暴れ回っているようにしか思えなかった。
そんな存在を、ガーディアンとして配置する。
「ゆえに、悪徳のスヴァルトホルムというわけか……」
エルミアのつぶやきに、アベルは肩をすくめた。肖像画のスーシャからは連想できないやり口。
マリーベルの言う通り、まともな感性の持ち主だったら、随分と肩身の狭い思いをしていたことだろう。
血族が滅んで良かったなどとは、口が裂けても言えないが。
「まあ、ゴーストの来歴など知らずとも問題はあるまい?」
マリーベルがスーシャの肖像画から視線を外し、振り返りながら言う。
「昇天させるのではなく、消滅させるしか手がないんじゃからの」
「言い方って、重要だと思うぞ、俺は」
少なくとも、堂々と胸を張って言うことではない。
「ですけど、マリーベルさんの言うことも確かですよ、義兄さん」
「これだから現実ってのは、嫌なんだ」
妹に対して唐突に人間のクズめいたことを言い出したアベルを、エルミアは優しく見つめる。そこに非難の気配は微塵もなく、包容力に満ちていた。
「嫌なら嫌で構わない。ならば、私がアベルの目になろう」
「甘いですね、姉さん。それでも、現実というのは見えてしまうもの。ならば私は、木の葉を編んで義兄さんを優しく包み込んであげましょう」
「エルフのレトリックと見せかけて、単に監禁しているだけではありませんの。というか、違う話になりかけてはいません?」
ゴーストの話から、なぜ、自分のことになったのか。アベルは訝しんだ。
「とりあえず、ゴーストが出たらルシェルに《魔器》の呪文を使ってもらうか……」
「赫の大太刀を使うかじゃな。もうひとつ、ゴーストを消滅させる方法がないでもないが、普通は無理じゃし」
「それがなんだか知らないけど、心臓剣も普通は無理だぜ?」
「赫の大太刀、じゃ。二度と間違えるでないぞ!」
デュドネの血族のみが振るうことができるという、赫の大太刀。
シャークラーケンを倒したことで実証された、その破壊力は絶大。
実際、心臓を取り出しても、握りつぶしても、剣として振るっても、その剣が破壊されても、アベルは死なない。痛みもない。
ただ、ひたすらに巨大な違和感があるだけ。
アベルの感情さえ無視してしまえば。そして、他者から血――命血を補充することを厭わなければ、破格の破壊力が手に入るのだ。
「……吸血鬼の館だし、なんかいい武器が落ちてることを期待しよう」
その欲望まみれの一言で、空気が探索モードへと切り替わる。
アベルは、改めて周囲を見回した。
玄関ホールは、横30メートル、奥行きも20メートル以上ある広々とした空間だった。天井も高く、あの立ち回りができたのも当然と言えた。
玄関とはなにかと、アベルは哲学的な疑問に囚われそうになる。
「ダンスホールがない場合は、玄関ホールで代用するからの」
「なんなの? 吸血鬼はダンスパーティできなかったら死ぬ生き物なのかよ?」
肖像画は、スーシャとクルィクの一枚だけ。
他に、壁にはいくつもの――アベルの目で見ても高そうな――ランプがかかり、今は明るく周囲を照らし出している。
そのランプは壁を美しく飾っているタイルも輝かせており、質実剛健な外観とのギャップをも演出していた。
「でも、こういう装飾はなぁ。はがして売れないから、あんまり嬉しくないんだよなぁ」
「アベル、売っては駄目ですわ。自分で住むことになりますのよ」
「はっ。つい、癖で……」
「義兄さん、気持ちは、よくわかります。わかります……」
この玄関ホールからは、いくつかの通路につながっていた。
まず、玄関ホール脇の通路は手前側にあり、左右に二本。それとは別に、ホールの奥には楕円形を描くように二階へ続く階段がある。その階段の間には、両開きの扉も見えた。
「冒険者の宿痾は、ともかく」
エルミアは話に乗らず、アベルに方針を確認する。
「先ほどのゴーストが逃げ出したのは、右側だったはずだが……」
「ああ、そっちから行こう。あえて逆を張る理由もないだろ」
玄関ホールを入念に調べるという選択肢もあるが、時間がかかりすぎる。
あえて別のルートを選ぶこともできるが、安全性にも確実性にも疑問符がつく。
今は、奇をてらう場面ではない。
腰から吊るしたショートソードを軽くたたき、アベルは先頭に立って右側の通路へと移動した。
「そうそう。先ほどは、全員、なかなか良い動きであった。心の考課表に、しかと刻んでおいたぞ」
この『スヴァルトホルムの館』を訪れた、もうひとつの目的。
誰が、マリーベルの子となって、アベルの血の花嫁の座を射止めるか。
「私の見立てでは、今のところ互角だとは思うのですが……気になってしまいますね」
「自然体だ、ルシェル。あるべき未来を見定めていれば、一喜一憂する必要はない」
「エルミアさん、微妙に足取りが弾んでいますわよ?」
「そういうクラリッサさんも、手応えを感じているような顔をしてますけど?」
アベル以外のやる気が、辞退したはずのクラリッサも含めて、露骨に上がったように思えた。なるならないは別にして、負けたくないと思ってしまうのだろうか。
「ふむふむ。意気軒昂で、結構なことよ」
無関心を装うアベルの肩に乗り、マリーベルが念話で語りかけてくる。
『アベル、とりあえず汝にだけは伝えておくがな』
『なんだよ、突然』
『今の、余が選んでいずれかを吸血鬼にするという話じゃがな、ご破算になるやもしれぬ』
『は?』
一瞬で、話が思いっきり変わった。
実際に悲鳴を上げそうになったところで、ちょうど曲がり角に出た。
アベルは、必死に平静を装った。エルミアにも、ルシェルにも、気取られるわけにはいかない。いや、ひょっとすると、クラリッサにも。
幸いにも、それは簡単なことだった。
もしアベルの様子がおかしかったとしても、この先の光景に起因するものだと判断されただろうから。
曲がり角の先は、闇に包まれていた。
この『スヴァルトホルムの館』に足を踏み入れたときと同じように。
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