「良かった、アベルさんは無事ですね!」
「お? おう?」
アベルの目の前――と言っても、数メートル離れているが――で、扉が開いた。
現れたのは、全身鎧の自称船外活動体。
次元航行船そのものであるローティアが、がちゃんがちゃんと音を鳴らしながら駆け寄ってきた。
「ああ……。次元隔壁ってのが、なくなったから……」
だから、扉を開けてすぐに、エレメンタル・リアクターが安置されている部屋につながったのだ。
広いことは広いが、光と闇の巨人と戦ったような広大な空間は消えてなくなっていた。
「あれ? その服がぼろぼろの美人さんは、どこから……」
脱兎の如くとは、まさにこのこと。
アベルをコフィンローゼスから追い出すと、スーシャは棺に入り込み、ばたんと蓋を閉めた。
早業。
そして、神業。
「…………」
「…………」
あんな状況だったのに、棺は傷ついていない。ここまで来ると、逆に、素材や製法が気にならなくなるから不思議だ。
アベルは、ぼんやりと、そんなことを思う。
「って、それどころじゃないです!」」
先に我に返ったのは、ローティアが先だった。
「アベルさん、エルミアさんが!」
「エルがッ!?」
ローティアの言葉を聞いた瞬間、アベルの思考は真っ白になる。
視界が真っ赤に染まり、気付けば、コフィンローゼスを乱雑に引いて駆け出していた。
「アベルさん!?」
ローティアを押しのけ、扉から次元航行船の通路に戻る。
そして、コフィンローゼスを壁に叩き付けた。
鉄の強度を持つスティールツリーの船腹に穴が空く。
ローティアが、エレメンタル・リアクターを正常化させたことについてなにか言うことなく、先に伝えてきた。
だから、重大なことに違いない。
そんな理由は後付けで。
ぶち抜いた穴から、アベルは外へと身を躍らせた。
「エル!?」
しかし、地面に降り立った瞬間。いや、エルミアの姿を目の当たりにした瞬間、アベルはその場に崩れ落ちそうになった。
それでもなんとか奮起し、一目散にエルミアへと駆け寄る。途中、なにかを蹴飛ばしたようだが、気にしてはいられない。
「エル……」
すぐそこに。手を伸ばせばすぐ届く距離で、エルミアが、堅く冷たい地面に横たわっていた。
心臓が冷たい手で鷲づかみにされたかのように怖気が走った。猛烈な吐き気に襲われる。
エルミアの目は閉じられ、手足はだらんとして。
それから、体の真ん中に大きな穴を開いていた。
「GaAaaaaaaaaa!!!!」
背後から、耳をつんざく咆哮が聞こえてきた。大気が揺れ、壁の一部がばらばらと剥離する。
ワームホールとやらから出てきた絶望の螺旋の眷属だろうか。
だが、そんなものは関係ない。
どうでもいい。
「義兄さん!」
「ルシェル!」
泣きそうな顔で、エルミアにヒーリングポーションを飲ませるルシェル。
そのエルミアの耳元で懸命に吼え、必死に行かせまいとするクルィク。
お陰でまだ保っているが、傷口が塞がる気配はなかった。
「姉さんが、私をかばって」
「分かった。大丈夫だから。心配するな」
エルミアの傍ら――ルシェルの正面にひざまずき、アベルは、周囲を見回した。頼りになる血の親を探して。
まずは、マリーベルの意見を聞こう……とするが、姿がない。
小さなマリーベルは、どこにもいなかった。
「マリーベルはどうしたんだ……?」
「え!? マリーベルさんと、一緒じゃないんですか!?」
二人とも、ぴたりと動きが止まった。
クルィクだけが、今なお吼え続けている。
「なんで、俺と一緒だって……」
「いきなり、マリーベルさんの姿が消えたので、てっきり……」
突然、マリーベルがいなくなった。
エルミアが瀕死の重傷を負った、このタイミングで。
悪いことが重なりすぎだ。
次元航行船がうなりをあげた。
機能が正常化し、絶望の螺旋の眷属を押し返そうとしているのだろう。
アベルの視界にも意識にも入ってはいないが。
『ご主人様やるしかない』
なにをやるのか。分かっている。
今エルミアを救うには、吸血鬼化させるしかない。
それが分かっていて。いや、分かっているからこそ、アベルは即座に反論した。
「いや、そうとは……」
アベルがそうだったように、神殿で生き返らせてもらうことはできるはず。もちろん無料ではないが、命に比べれば安い。
そう、それでいい。今回だけなら、それで。
『ご主人様は自分でなんとかしなくてはならない』
「そう。そうだ……な」
だが、これからも、同じことが起こるかもしれない。その度に、こんな気持ちになるのか。
そんなことはごめんだ。
エルミアに向かって吼え続けていたクルィクが、アベルに体を擦り付ける。元気づけようとするかのように。勇気づけようとするかのように。
「エル、さっき言ったとおりだ。もう、了解は取らねえぜ……」
エルミアに空いた穴を隠すように覆い被さり、アベルは真っ白なうなじに牙を突き立てた。
ルシェルでも、クラリッサでも、経験はある。
なのに、長い長い願いが叶った。そんな達成感を憶えた。
容易く皮膚と血管を突き破り、芳醇な生命の源が噴き出してくる。
オアシスにたどり着いた旅人のように、一心不乱に吸い尽くす。
「あっ、くぅううん……」
鼻にかかった、甘く、媚びるような声を出すエルミア。意識はないが、感じているようだ。
ルシェルから食い入るような視線を感じるが、気にならない。
エルミアは処女がどうとか気にしていたようだが、
しかし、今は、アベルのための吸血ではない。エルミアを同族に迎え入れるための儀式。
だから、必要以上に。エルミアの中から、古い血をすべて吸い尽くす。
誰にも、マリーベルにも聞いたことはない。
だが、吸血鬼の本能がアベルを導いてくれた。
「アベ……ル……」
「エルミア、飲め」
指先を噛みきり、エルミアの口に挿入する。
こくりと、喉が動く。
小さく、けれど、確かに。
アベルに血を吸われ、空っぽになったエルミアの体。
そこに、吸血鬼の。
アベルの血を取り込み、生まれ変わるのだ。
「もっとだ、もっと飲め。飲んでくれ」
アベルの哀願。
それを受けて、乳をねだる赤子のように、エルミアはアベルの指に吸い付いた。
貪欲に。
欠けたものを補おうとするかのように。
ローティアと絶望の螺旋の眷属が、一進一退の攻防を繰り広げる中。
エルミアは、生きるために生ける死者となるべく必死に喉を鳴らしてアベルの血を嚥下していった。
『ご主人様もう大丈夫』
『ああ……。いてくれて、助かった』
『感謝は無用 これはスーシャの仕事じゃない あとでマリーからご褒美もらう』
『その負債、結局、俺に回ってきそうなんだが』
とにかく、成功した。
「姉さん……姉さん……っっ」
ルシェルがすがりつく吸血鬼となったエルミアの体に、変化が訪れた。
元々新雪のようだった肌は、より一層白く。
エルフ特有の快活な生命力は、頽廃なそれへと取って代わり。
そして、体に空いた穴は、綺麗に塞がっていた。
「ルシェル、エルミアを頼む」
「義兄さん……?」
アベルは立ち上がった。
「落とし前を付けてくる」
涙で目を腫らしたルシェルの顔から目を背け。
ようやく、仇に意識を向ける。
それは、ドラゴンに似ていた。
太い前肢、太い爪、太い牙。
泥色の鱗、この世すべてを憎む瞳。
帆船――次元航行船による衝角突撃を受け止め、この世界へ這い出そうとする絶望の螺旋の眷属。
「《疾風》」
ルシェルとコフィンローゼスを置き去りにして、アベルは走った。走って、次元航行船の舳先へ躍り出る。
甲板には鎧の残骸が散乱し、船体そのものも嵐に遭遇した直後のように傷ついていた。
ローティアも、エレメンタル・リアクターが暴走する中、必死に頑張っていた。
ルシェルも、クルィクも、そして、エルミア本人だって死力を尽くした。
結果、相手が上回った。
それだけ。
だが、正しいからといって看過できるはずがない。
「アベルさん!? なにをするつもりですか?」
「復讐」
これ以上は短くならない答え。
アベルはローティアの声がどこから聞こえてきたのか確かめることなく、手を胸に――心臓へ突き入れた。
「人であらんとするため、我、怪物となる」
聖句を唱え、取り出した心臓を握りつぶし赫の大太刀を作り出す。
しかし、それは常よりも巨大で、禍々しいまでに輝いていた。
エルミアの血を吸ったからか。それとも、アベルの精神が反映されたゆえか。
どちらにしろ、その威力は絶大。
舳先に乗ったままアベルは赫の大太刀を振り下ろした。
次元航行船と絶望の螺旋の眷属。
両者が拮抗して生まれた力場をあっさりと斬り裂き、絶望の螺旋の眷属の長い鼻の先を斬り裂き四散した。
痛みを感じる器官があるのか。絶望の螺旋の眷属が大きく身をよじり、悶え苦しむ。
「なんだかよく分からないけど助かりました!」
均衡を破った次元航行船が、絶望の螺旋の眷属を押しかえしていく。
徐々に。けれど、確実に。
アベルが、舳先から飛び下りる。さすがに絶望の螺旋の眷属から命血を吸収はできなかったが、余力はあった。
地面に降り立ったアベルが、振り返ると、ちょうど終わったところだった。
絶望の螺旋の眷属の姿は、どこにもない。
水銀の泉には波紋ひとつ浮かんでおらず、ローティアの次元航行船は、それに突入する姿勢のまま静止している。
こうして、世界は元の姿を取り戻した。
いくつかの、戻らぬ爪痕を除いて。
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