「ん? んんんん?? うんんん、んん???」
うなり声だけだが抑揚を付けて、アベルは現在の状況への疑問と理不尽さと不自然さを表現する。
おかしい。
諸々片付けた、翌日の夜。『スヴァルトホルムの館』を攻略するため集合したのは、アベルの定宿。そこから館の入り口へ移動するのかと思いきや。
「どうしたのだ、アベル?」
「吸血鬼でも、体調不良になるのですか?」
「はっきりさせたいことがあるのなら、今のうちですわよ?」
なぜか、エルミアの家にいた。
あの夜、エルミアが血の花嫁になりたいと指輪を置いたテーブルに、全員が集まっている。
「いや、『スヴァルトホルムの館』の入り口って、泥酔する木陰亭にあるんじゃなかったのか?」
それなのに、なぜこんなところにと疑問を呈したアベルへ、立ったままのウルスラが答える。
「いえ、この家の横の路地を抜けた先にございますが」
「じゃあ、泥酔する木陰亭を出たところで会ったのは、なんだったんだよ!?」
平然と、とんでもないことを言う男装の執事に、アベルは食ってかかった。
「それはもちろん、アベル坊ちゃまに会いに行っただけですが?」
「え? ついでとかじゃなかったのかよ……」
「はい。というより入り口の存在自体、マリーベルお嬢様がこの家を訪問した際に判明しましたので」
説明に矛盾はない。
どうやら、アベルの早合点だったようだ。恥ずかしい。けれど、こんなことは人生で何度もあった。
「では、疑問も解消されたところで説明に移ります」
ダイニングテーブルのアベル、エルミア、ルシェル、クラリッサを順番に見回し、男装の執事が開始を宣言した。
「先ほど申しましたとおり、『スヴァルトホルムの館』へとつながる次元の扉は、この家の横の路地を抜けた先にございます」
「知らず知らず、吸血鬼の館と隣り合っていたことになるわけか……」
「現実とは異なる位相でございますので、実質的な距離は離れておりますが」
ウルスラの説明に、アベルは早くも着いていけなくなるのを感じていた。
次元界に関する冒険など、Aランクでも一握りしか経験したことがないはず。やる気はあったが、場違い感は否めない。
「難しく考える必要はないのじゃ。単に、路地裏の先にドアがあって、それを開くと『スヴァルトホルムの館』へたどり着く。それだけの話よ」
「でも、なら、今まで見つからなかったんだ?」
「誰も探していなかったこと、あちらから開けようとしなかったこと、そして、私めが存在していなかったことが理由です」
扉を扉として維持するためにはウルスラが必要だと、説明を続ける。
「私めが、現実世界に残り、アンカーとなります。その間に、アベル坊ちゃま方には、『スヴァルトホルムの館』の機能を把握していただく。以上が、概要となります」
「ざっくりしすぎですわ」
「ですが、そう言うということは、ある程度当てがあるんですよね?」
「ある」
ルシェルの問いには、ダイニングテーブルの上に浮くマリーベルが短く答えた。
「余らが制御するわけではなく、制御できる者を確保するのじゃ」
「制御できる者……」
「スヴァルトホルムの当主ってのは、マリーベルの親友らしい」
「そうだったのか」
それだけで事情を察し、エルミアが同情の視線でマリーベルを見上げる。
それに気付き、マリーベルはツインテールの黒髪を振った。
「男の気持ちには気付かぬくせに、こういうところは勘がいいんじゃな……」
「マリーベル殿、なんの話だろうか?」
「こっちの話じゃ。まったく……」
「つまり、唯一の生き残りだという当主――」
「スーシャじゃ」
「――スーシャさんは、信頼してよろしいのですわね?」
「うむ」
クラリッサの確認に、間髪を入れずうなずくマリーベル。スーシャの話が出てから聞き役に回っていたルシェルが、このタイミングで手を挙げた。
「吸血鬼ですから生きてはいらっしゃるのでしょうが、なにか問題が発生している可能性も考えられるのでは?」
「……否定はできぬな」
「では、不測の事態が起こっている場合は、即時撤退。これを方針として採用するよう進言します」
「至当な意見であると認めよう」
「マリーベル!」
考える素振りも見せず承認するマリーベルに、アベルは思わず椅子から立ち上がった。
「無理をしても仕方あるまい。その場合は、例の試験もやり直しになるがの」
「でもよ……」
「アベル、落ち着け。撤退前提というわけではないだろう」
エルミアにいさめられ、アベルは椅子に戻る。
「完璧を求めては、なにもできない。臨機応変に動くとしよう」
「ですわね。報告書を読むと、こういうケースはかなりありますし」
エルミアもクラリッサも、冷静だった。
今から逸っても仕方がないと、アベルは反省する。
吸血鬼になって、力を手にして。
なんでもできると、おごっていたのかも知れない。
「すまないな、ルシェル。本来なら、俺が言うべきだったのに」
「いいんですよ。義兄さんのサポートこそが、私の喜びですから」
華やいだ……ともすると場違いなほどの笑顔を浮かべ、ルシェルは身をくねらせた。そこまで喜ばれると逆に引いてしまい、アベルは曖昧な表情になってしまう。
「では、アベル。食事の時間ですわ」
「え? 飯食ってきてないのかよ?」
夕食の時間――アベルにとっては朝食だが――は、とっくに過ぎている。今から食事をしては、出発も遅れてしまうと、アベルは渋面を浮かべた。
「まあでも、食わないで行くわけにもいかねえしな」
「わたくしは、ちゃんと食べてきましたわよ。レバーとかホウレン草とか卵とかカキとかを」
「なんだそのラインナップ」
なにかの儀式だろうか。呪術的な意味合いがありそうだ。
「ニエベス家に、神話の時代から伝わる貧血防止メニューですわ」
「そりゃ、貧血になったら困るだろうが……」
「ですので、わたくしから、たっぷり吸って構いませんわよ?」
「……は?」
呆然とした隙を突いて、クラリッサがアベルの手を取った。そのまま引きずって外へ向うが、エルミアもルシェルも動こうとしない。
事ここに至って、すべて打ち合わせ済みなのだとアベルは気付くが……手遅れ。
まさか本気で抵抗することもできず、クラリッサとアベルは家の外へと出て行った。
「自ら吸血鬼に血を捧げに来るとは……。ウルスラ、これは余が夢見た理想郷か?」
「なにを我慢しているんですか。お嬢様は、今、泣いていい。泣いていいのですよ……」
ウルスラは哀しげに目を伏せ、わずかに首を横に振った。
それは、現実逃避するマリーベルと、翻弄されるアベルのどちらへ向けた同情なのか。明晰を誇るウォーマキナの頭脳でも、判断することができなかった。
「《ダーククラウド》」
外へ出るなり、クラリッサは路地へと入り込み属性石のペンダントからパワーを発動させた。
薄く引き延ばされた闇の雲が、アベルとクラリッサの周囲を覆う。
「さあ、アベル。吸っても構いませんのよ?」
「いつの間にか、俺が希望したことになってる……」
闇は深いが、それは人間の視力を基準にした話。吸血鬼のアベルもダークエルフのクラリッサも、お互いの顔ははっきりと見えていた。
「だって、その……ずるいですわよ」
ここで、『スヴァルトホルムの館』へ行く前に命血を補充したほうがいい。そんな実務的な言葉が出ていたら、アベルは強引にでも、戻っていただろう。
だが、出てきたのは予想外にしおらしい言葉。
「ルシェルさんはもう吸ってもらってますし、エルミアさんだって血の花嫁になったら吸い合うのでしょう?」
「まあ……。そうなるかも……な」
「わたくしだけ、仲間外れではありませんの」
下唇を突き出して不満を口にするクラリッサの瞳は、潤みきっていた。褐色の頬も、闇の中でも分かるほど色づいている。
本当に、これがあのクラリッサなのか。
冒険者を選り好みし、美人だけど近づきたくない受付嬢と呼ばれるクラリッサなのか。
「そりゃ反則だろ……」
アベルが、口を手で押さえた。慌てて距離を取ろうとしたが、それはクラリッサが手を掴んで許さない。
「なら、ちゃんとペナルティを与えるべきですわ」
クラリッサは少しだけ背伸びをしてアベルの首に手を回し、強引に抱き寄せた。
アベルの唇が、そして牙が首筋に触れる。
「あ……うんっっ……」
なにかをこらえるような、鼻にかかった甘い仰ぎ声。
全身に、甘いしびれが流れる。それは果たして、牙が皮膚を食い破った痛みによるものか。それとも、吸血という行為自体でもたらされたものなのか。
分からない。
「あうっ。これ……はあぁ……」
クラリッサには、もうわけが分からなかった。体が浮き上がって、どこかへ飛んでいってしまいそうで。
心細くて、怖くて、ぎゅっとアベルに抱きついた。
タバコの匂いがしてわずかに顔をしかめるが、すぐに気にならなくなる。
この感情はすべてアベルからもたらされているというのに、体温を、吐息を、鼓動を感じていると、とてもとても安心した。
「……クラリッサ」
「アベル……」
朦朧とする意識と視界の中、それでもたったひとつの名前は忘れない。
「終わりました……の……?」
幼児のようにたどたどしい口調で確認するクラリッサの髪を、アベルは優しく撫でてやった。
それで安心したのか。クラリッサの膝から力が抜け、その場にぺたんと座ってしまう。
「クラリッサ!?」
もしかしたら吸い過ぎたのかと、アベルが慌てて抱き起こそうとする――が。
「ダメですの!」
その動きを、クラリッサは言葉だけで制した。体は、ちょっと動きそうにない。
「いや、ダメですのって」
わけが分からないと、アベルは手を虚空に彷徨わす。タバコを探している仕草だ。
それに気付き、クラリッサは微笑んだ。
しかし、端から見ると、ただでさえも緩んでいた表情が、さらに蕩けているようにしか見えない。
「やっぱ、マリーベルを呼んで……」
「大丈夫ですわ。アベルは先に戻って、準備をしてくださいまし」
「でも……」
「しなさい!」
「……分かったよ」
なにかあったらすぐに呼べよと、何度も振り返りながらアベルがエルミアの家へと戻っていく。
やっと一人になり、クラリッサはへねへなと地面に横たわった。もう、体に力を入れるのすら億劫だ。
あのときルシェルが耐えられたのは、戦闘中だったからに違いない。そうでなければ、文字通り骨抜きになっていたはず。
それほどまでに、吸血体験は鮮烈で強烈だった。
「これじゃ、もう、別の意味でも――」
――離れられませんわ。
その言葉は、闇に溶けて誰にも届くことなく消えていった。
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