「お帰りなさいませ、アベル坊ちゃま」
「おおう。いたのかよ」
もはや、『孤独の檻』を気にする必要もない。
名実ともに、アベルの家となった館に入った瞬間、目の前にウルスラが出現した。
待ち構えていたのではなく、突然、ポップアップしてきたように思える。吸血鬼の知覚ですら、捉えられなかった。
明らかに人間業ではないのだが、ウルスラならできなくもないか……と受け入れてしまった辺り、アベルもかなり毒されている。
「はい。ずっと」
アベルの驚きとは対照的に、ウォーマキナ――人工機械生命――の男装執事は無表情。
「おい、今ちょっと、無表情で怖いことを言ったぞ?」
「そうでしょうか?」
「クラリッサが帰って来たから、待ってたんじゃないのかよ」
「いえ。特に、アベル坊ちゃまに用があるわけでもありませんので」
「言い方、言い方」
たしなめはしたものの、冷静に考えると、用があって待ち構えられているよりましだった。かなり。
「というか、あれか。俺じゃなくて、マリーベル待ちか」
用があるとしたら、こっちだろう。ウルスラは、あくまでもマリーベルの執事なのだから。
クルィクの背中に一緒にいないのは、マリーベルが煙たがったからに過ぎない。
「その通りでございます」
男装の執事が、見惚れるようなお辞儀をしてアベルの言葉を認めた。
「マリーベルお嬢様が懸命に励んでいらっしゃるのに、執事が休んでいるわけには参りません」
「励むという表現に、そこはかとない悪意を感じる」
「それは下衆の勘ぐりというものでございましょう」
動揺した素振りを一欠片も見せず、ウルスラは否定してみせた。
マリーベルとスーシャが抱き合っているという一部には喝采ものの光景ではあるが、そこには実務と友情以外のものは存在しない。存在しないのだ。
「それに、棺の手入れもございますし」
他の仕事は終えているので、この玄関ホールで待機するのが最も効率的らしい。手入れするための道具などどこにも見えないが、ウルスラだから、適当にどうにかするのだろう。
「でも、汚れがつかないよう魔化されてるって聞いたぞ……」
スーシャとマリーベルのどちらからかは忘れたが、そう説明を受けている。
だからこそ、街中を引きずったり、戦闘に使ってもアベルは特に掃除をしなかったのだが……。
「もしかして、変なプレイに知らず知らず協力しているんじゃ……?」
「それはさすがに……」
「ない?」
ウルスラが口をつぐみ、視線を逸らした。
その先には、スーシャの肖像画がある。
「……念のためでございます」
「それなら、まあ、負担にならない程度で」
本人がやるというのであれば、無理に止める必要もない。
そして、コフィンローゼスの真実には、踏み込まないことにした。
「さて、俺は部屋にでも……」
二階にある私室へ戻ろうとしたアベルが、ウルスラの横を通り抜けようとする。
「ところで、アベル坊ちゃま」
そのアベルを、ウルスラが呼び止めた。
「…………」
「おや、奇妙な反応でございますね」
立ち止まりはしたが振り返ろうとしないアベルへ、不審げな視線を向けるウルスラ。
わざとではない。
ただ、猛烈に悪い予感がしただけだ。
こういうときは、良く当たる。
それで危機を脱したことは、ほとんどなかったが。
「……かしこまって言われると、なんか、ろくでもない情報を与えられそうな気がしてな」
「アベル坊ちゃまは、私めを、どう思っているのですか?」
「有能な執事だとは思ってるけどよ……」
ただし、それは性格の良さを保証しない。
「お褒めの言葉をいただき、恐縮です」
そういうところだぞ、ウルスラ。
とは思うが、もちろん、口には出さない。
「執事として、耳寄りな情報をお伝えしようと」
「あっ、すげー聞きたくない」
「ミセス・エルミアは厨房、ミス・ルシェルは図書室、ミス・クラリッサは二階の浴室にいらっしゃいます」
どちらへ向かわれますか?
そう、アベルへ決断を促すウルスラは、相変わらず人形のよう。
ただ、目だけは笑っているように見えた。
ウルスラと別れ、玄関ホールから食堂へ入ったが、そこには誰もいなかった。
頭上には、常に燦々と輝く魔法のシャンデリア。かつてのアベルであれば、これひとつで一財産と喜んだだろうマジックアイテム。
それに照らされた室内は、輝きに負けず劣らず豪華。
窓がない代わりに、壁には南の大森林や西の大平原を思わせる風景が描かれ、精緻な木彫りや、この館自体をモデルにしたオブジェも飾られている。
広いが空虚さは感じさせず、元幽霊屋敷とは思えない暖かみすらあった。
変わったのは、テーブルだけ。
巨大な長方形のテーブルは、争いを呼ぶだけだからと撤去。代わりに、適度の大きさの円卓が運び込まれていた。
ローテーションでアベルの両隣が変更されることを除けば、まあまあ、快適だ。
「エルミアは、キッチンか……」
真っ先に会いに行ったわけではない。ただ、いつ頃食事になるのか確かめておいたほうがいいだろうと判断しただけ。
極めて、実務的な判断だ。
そう、誰にともなく言い訳をしながら、アベルはそのまま厨房へ移動する。
そこでは、若草色のワンピースにエプロン身につけたエルミアが、かまどの火加減を確認していた。
「アベル、帰ったのか」
気配に気付き、エルミアが振り返った。額に浮いた汗をハンカチで拭いながら、嬉しそうに微笑む。
老化が極めて遅いエルフ。その中でも、少女と大人の端境にいるエルミアがそうしていると、若妻という表現がぴったりだ。
そう。結婚したあの頃と、なにも変わらない。
「エル……」
つい、昔を思い出して愛称――と、言うほど、大したものでもないが――で呼んでしまったアベル。
そのつぶやきを聞いて、エルミアが笹穂型の耳をぴくりと動かした。そして、にっこりと顔をほころばす。
「アベル、そっちの首尾はどうだった?」
「ああ、なんも問題なかったぜ」
かまどの火加減は問題ないのか。軽く手を洗うと、エルミアはキッチンの入り口にいるアベルの側へ移動した。
内容も、雰囲気も、まさにエルフの若奥様。まるで、帰宅後の夫婦の会話のようだ。
「カッツの一撃も余裕で耐えたし、攻撃を受け止めながら光線で反撃もできるし」
「光線に関しては、スーシャの耐久力次第ということだが、切り札になりそうだな」
「環境と運用次第なところはあるけどな」
「それは、どんな武器や戦術でもそうだろう」
言外に、そのために自分がいるのだと言って、アベルをたしなめるエルミア。怒っているわけではないが、やや厳しい表情だ。
「今のアベルが私たちよりも遥かに強いのは分かっている。だからといって、全部自分でやろうとはしないでくれ」
「あ、ああ……」
確かに、昔からそういう傾向はある。
アベルも自覚があったため、言い返せなかった。
そんなアベルを見て、これ以上は逆効果と判断したのだろうか。エルミアが表情を和らげた。
「さて、もう30分もすれば食事の用意ができる。ルシェルに伝えておいてくれないか」
「ああ。ルシェルは図書室にいるって、ウルスラが言ってたな……」
図書室へ行くためエルミアに別れを告げる。
踵を返して食堂へと戻ったアベルが、はたと、立ち止まった。
不思議そうに上を見て下を見て、首をひねり。
「あれ……? おかしくないか……?」
誰にともなくつぶやき、なにかに気付いたように目を見開いた。
この違和感を相談できる相手は、一人しかいない。
『マリーベル! マリーベル!』
『なんじゃ、血相を変えて』
必死に念話で呼びかけるアベルに対し、気怠いマリーベル。
スーシャに力を与えているので本当に怠いのだが、それでもアベルを見捨てることはしなかった。
『なあなあなあ? 新居で、別れた彼女が当たり前みたいに料理してるのって普通か?』
『それは、明らかに異常じゃろ』
『だよな……』
どうやら、アベルの知らないうちに常識が変わってしまったわけではないらしい。それは良かったが、問題がより浮き彫りになっただけ。
『じゃが、今さらであろう? エルミアだけでなく、ルシェルもクラリッサも引っ越してきておるではないか』
『そうなんだけど……』
確かに、今さらではある。あるのだが……。
『俺、その件に関して了解を求められた記憶がないんだよな……』
そうするのが最善だと、ファルヴァニア側の家をアベルの資金で購入し。
そうなると住むところがないからと、エルミアがスヴァルトホルムの館へ移住し。
ルシェルが、自分とアベルの宿を引き払って移り住み。
クラリッサもやってきた。
すべて、水が上から下に流れるように自然に行われ、口を差し挟むタイミングが存在しなかった。
『まるで、エルミアと結婚したときみたいだ……』
『ぬぬ。アベルは、実生活で役に立たぬからのう……』
そのため、みんなが良かれと自主的に動き、結果、外堀が埋まっている。
『で、今から追い出すつもりなのかの?』
『マリーベル、俺にそれが可能だと思うか?』
『アベル以外の誰にそれが叶えられると言うんじゃ』
『だよなー』
妥当だが、今さら実行不可能な結論。
「……とりあえず、ルシェルとクラリッサを呼んでくるか」
自業自得。
その言葉の重たさを噛みしめながら、アベルは食堂をあとにした。
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