『やべえ、森林衛士っぽいのがいるぞ』
『む? 余にはなにも感じられぬが……』
『分かんねえのかよ』
『余は、この状態では、あまり感覚が鋭くはないのだ』
ファルヴァニアへと戻ろうとしていたアベルは、返事をせず木の陰に隠れた。
きちんと念話を使用したので、相手には気付かれてはいないはずだ。
『ほう。言われてみれば、確かに微かな灯りが見えるのう』
『見つからねえとは思うが、あんまり顔を出すなよ』
アベルは小さなマリーベルの肩を掴んで引っ込ませるが、心配のしすぎだったかもしれない。
ここは木々が生い茂った森の中で、今はまだ夜。しかも、距離はかなり離れている。アベルも、吸血鬼として覚醒していなければ、気付かなかったに違いない。
警戒しすぎたかと、アベルは大きく息を吐いた。
『森林衛士ということは、レンジャーの一種か? だとしても、人間がこんな時間に大森林を徘徊するのが当たり前とは思えぬぞ』
『一応、この大森林も領主の持ち物ってことになってるからな』
正式には、神々の子孫として地上の支配権を授けられた、領主の支配領域ということになるだろうか。
もちろん、ファルヴァニアの領主であるニエベス家が主張しているだけで、実際に王権を神から授けられたという証拠はない。
『その領主の財産を守るため、見回りということか。宮仕えは辛いの』
『まあ、仕事はいろいろあるらしい。いろいろな』
エルミアが森林衛士に勧誘されたとき、黙って調べてみたのだ。
マリーベルが言う通り巡回も業務のひとつだが、それだけではない。環境調査に、モンスターの駆除、希少な素材の保護など多岐に渡る。
夜間の見回りも、通常業務の一種だ。なにしろ、人の目が届かない大森林である。悪事を企むのに、不足はない。
戦闘も日常的に発生し、冒険者をやるよりも余程危険かもしれない。少なくとも、責任は重い。
その分、報酬も社会的な地位も与えられるわけだが……。
『とにかく、やり過ごしたほうがいいな』
『なぜじゃ? 下手に逃げ隠れせんでも良かろう。こっちは、悪いことをしているわけではあるまい』
『もはや、存在自体がわりと悪い感じになってるんだけどな? 俺が吸血鬼だってばれたら、お前まで芋づるでやばいことになりかねないぞ?』
アベルは、血の親へ噛んで含めるように伝えた。
どうにも、アベルからするとマリーベルは危機感が薄い。
『そもそも、深夜の森にいる時点であやしいんだからな』
『う~む。人間は不合理じゃなぁ』
不承不承ではあるが、マリーベルはアベルの方針に従った。
人間相手であればそのほうが確実だろうし、なにも起こらなければそれに越したことはない。
妥当な判断。
アベルが、幸運に見放されていたという点を除けば。
木の陰で息を潜めていると、灯りが徐々に大きくなってきた。目視せずとも、吸血鬼特有の感覚が、誰かが近づいてくることを知らせる。
『居場所がバレた!?』
『――わけでは、なさそうじゃのう』
もしそうなら、森林衛士も、もっと警戒するだろう。だが、武器を抜く気配はない。
こちらに来ているのは、単なる偶然。目的地がこっちにあっただけ、ということのようだ。
『都合の悪い偶然だな。マリーベル、なんか隠れる血制とかないのかよ?』
『なくはないがの……』
マリーベルが言葉を形にするよりも先に、破局が訪れた。
ただし、アベルが予想していたよりは、穏やかに。
「やはり、アベルか」
無造作に回り込んで顔を覗かせたのは、エルミア。
森林衛士にして、アベルの元妻であるエルフだった。
玻璃鉄の真球に《燈火》の呪文を封じ、それを光源としたランタンで照らされたエルミア。
幽玄の美を体現したかのような森の妖精は、美しすぎて現実感が薄い。
吸血鬼の視力で見ても。いや、だからこそ、その輝くような美しさがよく分かった。
こんなところでエルミアに出会った――出会ってしまった――驚きよりも、その幻想的な姿にアベルは声を失う。
人間だった頃は、本当の美しさをまったく理解できていなかったのだ。なんて、もったいないことをしていたのか……と、後悔をしても遅かった。
「こんな時間にこんな場所で、なにをやっているんだ?」
挙動不審なアベルには気付かず、普段よりも厳しい声で、エルミアが注意する。
しかし、表情は穏やか。むしろ、嬉しそうだ。
エルミアの飾らない気持ちが、そこには現れていた。
「やはりって、どういうことだよ……」
けれど、アベルは小さなマリーベルが気になって、それに気付かない。
それ以前に、アベルはエルミアの言葉の意味を計りかねていた。
ばれる要素は、どこにもなかったはず。
アベルが、大森林へ行くことだって、誰も知らないはず。
どこに、思った通りな要素があるというのか。
「慣れ親しんだ気配だ。ある程度離れていても、それくらい分かるぞ。常識だ」
「俺にとっては非常識だよ。これだから、エルフは……」
「冒険者の時は、みんな慎重だから披露する機会がなかったがな。それに、アベル。煙草をまた吸い始めたのだろう? 匂いで分かるぞ」
「マジかよ……」
「まあ、嫌いな匂いではないがな」
エルフの感覚は、人間のそれを遥かに凌駕するという。
そういえば、あの日の朝も、雑踏に紛れていたアベルをあっさりと見つけていた。
まさか、いつ来るか分からないアベルをずっと待っていたはずもないのだから、やはり、エルフはそれだけ鋭敏な感覚を備えているということになるのだろう。
エルフはというよりは、エルミアが特別なのかもしれないが。
『アベル、アベル。このレンジャー・エルフ・女と、どんな関係じゃ?』
『後で説明するから、黙ってろよ。むしろ、ここは消える場面だろ?』
『いいから、説明が先じゃ』
『け、結婚相手だよ。元、だけどな』
『元、元のう。果たして、お互いの認識が一致しているのかどうかは疑問じゃな』
マリーベルの鋭い指摘に、アベルは顔色を変え……るのをこらえようとして、結果、変に表情が歪んだ。
「どうしたアベル? まさか、怪我でも……」
「してない。大丈夫だ。ぴんぴんしてる!」
心配そうに近づくエルミアへ両手を押しつけるようにして、アベルは距離を取ろうとする。今、このマントを探られたら一巻の終わりだ。
最悪の想像をしたアベルの視界が真っ赤に染まる。
絶望的な状況に、めまいでも起こしたのかと思ったが――違った。
疼く。
剣歯が、妙に疼く。
まるで、生え替わろうとしているかのように。
なぜ、生え替わろうと? 今、この状況で?
自明だ。
アベルは吸血鬼で。
エルミアは、一度は永遠の愛を誓った女なのだから……。
「エル……。大丈夫だ。大丈夫だから、離れてくれ」
アベルが発した絞り出すような声に、エルミアは呆然とし、すぐに、はっと目を見開いた。
「本当か? アベルは、妙なところで格好付けようと――」
「エルミア様!」
拒絶されてもなおも近づこうとしたエルミアだったが、彼女の名を呼ぶ若い男の声が遮った。
「無事でしたら、返事をしてください!」
「返事、したほうがいいんじゃねえか?」
「変に邪魔をされないよう、待機してもらっていたのだがな」
エルミアが声を潜めて言った。どことなく早口だったが、その理由に思いを巡らす余裕はなかった。
「今度、なにをしていたのか聞きに行くからな。に、逃げるんじゃないぞ? お願いだから……」
命令と懇願が混合した言葉を残し、エルミアが声のほうへと移動していく。
「エルミア様!」
「なんでもない。私の気のせいだったようだ」
「それなら良かったですが、僕を置いていくのは、金輪際止めてくださいね」
エルミアを心配する、若い男の声。
この男か。
アベルの目が、すっと細くなる。
エルミアをしつこく食事に誘っているという同僚は、この男だ。
根拠はない。いや、ある。心配する風を装って、自分のいいところを見せたがっている男の声だからだ。
間違いない。
アベルにも、身に憶えがある。
一目、顔だけでも拝んでおきたい。
ろくでもない男だったら、血制を使ってでも――。
衝動に駆られて木の陰から出て行こうとする……が、寸前で思いとどまった。
「そんな権利も、資格もねえよな」
ふっと、肩から力が抜けた。
それに、名前も知らないあの男のお陰で、エルミアへ牙を向けずに済んだ。
むしろ、感謝しなければならない。
『権利も資格も関係ないと思うがのう』
『いろいろあるんだよ、人間……いや、大人にはな』
アベルがそう念話で伝えると、マリーベルはなにも言わなかった。
次に口にしたのは、情緒もなにもない、現実の話。
「さて、アベル。エルミアとやらはかなり遠くへ行ったようじゃ。日が昇らぬうちに巣へ戻るぞ」
「せめて宿と言ってくれ」
「穴蔵よりましな程度の部屋を、余は宿とは呼ばぬ」
王を自称するマリーベルらしい価値観で、生活を否定されたアベルは、意外としっかりとした足取りで進んでいった。
森の奥へと進むエルミアとは、反対方向へ。
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