「アベル! やっと見つけましたの。というか、この騒ぎは、一体なんですの?」
「クラリッサか」
どうやら、宿から抜け出したアベルを探していたらしい。
日の落ちたファルヴァニアの街を、ギルドの受付嬢。ダークエルフのクラリッサが、白い髪と胸を揺らして駆け寄ってくる。
「いや、それどころじゃねえ。危険だから、こっかから離れろ」
「え? わ、分かりました……わ」
いつにないアベルの剣幕に、クラリッサは素直にうなずく。
だが、言葉の途中で、段々と目を見開いていった。
驚きと、恐怖に。
「アベル、上におったぞ!」
「これだから、飛べるヤツは!」
振り返り、クラリッサと同じ方向を見ると、足先――サメの頭を上にして、シャークラーケンが上空に浮かんでいた。これでは、アベルも手を出せない。
「建物の屋根から跳躍すれば、届くのではないか?」
「バカッ! それで外したら、心臓がないまま終わりじゃねーか」
「――ここに来るべきではなかったな! 撃てぇっ!」
マリーベルとアベルの言葉にかぶせられた号令に続いて、領主の城館から無数の弓音が聞こえてきた。
正門付近から、あるいは尖塔から。数え切れない。空を覆うような矢が、シャークラーケンへと殺到する。
統率の取れた、見事な攻撃だ。
「なんだ。結構、優秀じゃねえか」
「え? え?」
突然始まった、兵士たちと魔獣の戦闘。
そして、アベルの肩にいる小さなマリーベル。
クラリッサは、どちらに反応すべきか、判断がつかなかった。
そして、その余裕もなかった。
「……まずいの」
シャークラーケンが、一斉に放たれた矢をその肉体で弾く。
それだけなら、アベルも予想できた。
マリーベルが舌打ちをしたのは、その先が予想できたから。
だが、予想できたのは結果だけだった。
誰が、想像するだろう。
上空で旋回したシャークラーケンが十本の足を目一杯広げ、そのまま回転。渦巻きからサメの頭を垣間見せながら、竜巻となって城館へと落下。
巨大な独楽となったシャークラーケンが城館の正門を粉砕し、兵士たちが逃げ惑う。
「アベル、あれは一体なんですの!?」
「地下に封印されていたモンスター……らしい。が、飛んだり竜巻になったりする理屈は分からん」
「そんな……」
その惨状にショックを受け、クラリッサがその場に崩れ落ちる。褐色の肌のため分かりにくいが、血の気を失い、唇も震えていた。
そんなクラリッサに目を付けたわけではないだろうが、シャークラーケンが攻撃の矛先を変える。いや、戻す。
「アベル、今度は上から来るぞ! 避けるか、耐えるかせい!」
「《金剛》」
ここで逃げ出したら、シャークラーケンが次に誰を狙うか分からない。ゆえに、アベルは即座に耐えることを選んだ。
全身が赤い靄のようなものに包まれ、クラリッサの、一部以外は細い体を抱きしめる。マリーベルは、その間に突っ込んでやった。
そのタイミングで、シャークラーケンが突撃してきた。竜巻の様に広がってではなく、今度は足を揃えて一本の矢のようになって。
「ぐはっ」
「きゃああああっっ」
背中を強かに打ちすえられたアベルが、苦悶の表情を浮かべる。ジャイアントが振るう棍棒を、まともに食らったかのよう。
やっぱり、逃げれば良かった……と思っても、口に出す余裕もない。
衝撃に息が詰まり、全身を痛みが駆け抜けてゆく。地面に体がめり込んでいかないのが不思議なくらい。
――《金剛》を用いていても、なおこれだ。
シャークラーケンは、十本の足を一纏めにして鈍器としてアベルを強打すると、弧を描いて再び空中へと舞い戻った。
続けて、シャークラーケンが再び急降下。
避ける間もなく、一纏めになったサメの頭がアベルの背中を打ち据えた。
「ぐうぅっ」
衝撃で体が逆くの字に曲がる。皮膚が筋肉が骨が内臓が深刻なダメージを負い、勝手に治っていく。吸血鬼の再生能力を実感するのは初めてだったが、感心する暇などない。
思わず舌を噛みそうになり、クラリッサの頭とぶつかりそうになる。
ランド・ドレイクの攻撃を通さなかった、《金剛》の守り。それを貫く、急降下攻撃。
まともに食らっていたら、その時点で肉体が四散していたかもしれない。
「アベル、わたくしを置いて――」
「そいつはできねえな」
「アベル……」
「こういときは、庇われるほうが痛いもんだからな」
楽な立場は、絶対に譲ってやらねぇ。
アベルは、にやりと笑った。それと同時に、またしてもシャークラーケンの急降下打撃をまともに食らい、笑顔が歪む。
「かはっ」
内臓が傷ついたのか――傷つかないほうがおかしい――アベルの口から、赤黒い血が吐き出される。
続けて、くらりと、足下が揺らいだ。
ダメージのせいだけではない。
血制の使いすぎで、命血が足りなくなっていた。
「アベル……」
「黙ってろ」
ダークエルフの白い髪から覗く、うなじから鎖骨のライン。
それに引き寄せられそうになるのを必死でこらえていると、不意に浮遊感を憶えた。
「お? おう?」
突進しても効果が薄いと判断したシャークラーケンが、サメの頭部を本来の用途――噛みつくことに使用した。
アベルの手足と胴体に噛みつき、しかし、噛み切れないと悟ると、そのまま浮上したのだ。
「アベル!? アベル!」
クラリッサの声が、下から聞こえる。
「吸血鬼って、墜落死するんだろうか?」
うっかり見落としていた疑問に気付くと同時に、シャークラーケンの上昇が止まった。領主の館が下に見える。クラリッサも、人間の視力だったら豆粒程度だろう。
ここが限界点らしい。
栄枯盛衰。熟したら、落下するしかない。
それは、文明も、果実も、そして、シャークラーケンも同じだった。
「うっ。ああああああっっっっっ!」
シャークラーケンに噛みつかれたまま、身も世もない悲鳴を上げて落下していくアベル。浮遊感に血の気が引き、下腹部がヒュンッとなる。
だが、今のところ、翼持たぬ身であるアベルにはなにもできない。
できるのは、命血を使い果たすまで《金剛》を維持することだけ。
――このままならば。
「燃えさかれ、焼き尽くせ。其は破壊の象徴なり――《火焔光線》」
「風よ、疾く我が矢を運べ――《双爪》」
アベルが地面に叩き付けられる寸前、地上から放たれた理術呪文と矢がシャークラーケンの足に突き刺さった。
「キュオオオオオオウウウウッッッ」
火と風の属性石によって強化された一撃が、シャークラーケンへ痛撃を与える。
兵士たちでの攻撃では微動だにもしなかったシャークラーケンが空中でバランスを崩し、地面へと落下していく。
これこそが、冒険者の力。
「義兄さんを傷つけるだなんて、許せませんね……」
「アベルになにをする!」
いや、もしかすると、乙女の情念が封印魔獣の装甲を粉砕したのかもしれない。
とにかく、不意打ちは効果を発揮し、アベルは解放された。
空中へ。
「あいっててててて……」
墜落して受けたダメージは、《金剛》のお陰で、そこまでではなかった。だが、その前から累積していた損傷がアベルを苛む。
「くうぅ……、きゅ……《キュア》」
痛みに耐えきれず、属性石の指輪を通して与えられた加護を使用する。吸血鬼となった今でも、神の慈愛は変わらない。
暖かな光に包まれ、痛みが和らいでいく。
傷は治った。
だが、足りない。
足りない。
足りない。
足りない。
血が。
命が足りない。
「アベル、無事か!?」
「義兄さん! 動けますか?」
「アベル、大丈夫ですの!?」
地面に落下したアベルへと駆け寄ろうとする三人。
その足が、不意に、止まった。
「そこの女子ら!」
「な、なんだ? 突然、アベルの陰から――」
「女の子の人形? ですか……?」
「一体、何者ですの?」
「そんなことはどうでも良い!」
珍しく余裕がない様子で、マリーベルが叫ぶ。
「血の親として、マリーベル・デュドネが命ずる。吸血鬼アベルに血を捧げよ!」
エルミアとルシェルは顔を見合わせ、同時にうなずいた。クラリッサも、瞳に決意をたたえて駆け出す。
戸惑うことなく、一斉にスタートした三人の美女たち。
美しさは甲乙付けがたいものの、基礎体力の違いはいかんともし難い。結果、エルミアが真っ先にアベルの元へとたどり着いた。
「アベル……」
「エル……」
苦楽をともにし、一時は運命もともにしようと誓った二人。
今は道を違えた二人だったが、目を合わせれば昔に戻ることができる。
「遠慮することなど、ないのだぞ。私たちの仲なのだからな」
牙が疼いた。
エルミアが、新雪のように白いうなじをさらけ出し、出遅れたクラリッサが悔しそうに顔を歪める。
アベルは、なにも言わない。それどころではなかった。
恐る恐る。けれど、確実に。疼く牙を近づけ――触れかけたその時、ルシェルが呪文を発動させた。
「えい――《理力の拳》」
軽いかけ声とともに、ルシェルが開いた呪文書から2ページ飛び出し、宙空で純粋魔力の拳へと姿を変える。
「……はへ?」
それがエルミアを押しやり、代わりにそのスペースへルシェルが入り込んだ。
「ルシェル!?」
「はい。姉さんはどいてください」
アベルの牙は止まらず、エルミアではなくルシェルのうなじに突き立てられた。吸血鬼の本能だ。
「あぅ……ふぅんっっ……」
鼻にかかった、色っぽい声音。
それを気にする余裕もなく、アベルは溢れ流れ落ちるルシェルの血を必死に嚥下する。
悪魔の囁きのように甘く。
天使の炎のように熱く。
ドワーフの蒸留酒のように暴力的なそれを。
アベルの体内に血が、命が満ちた。
ルシェルから牙を抜き、アベルは無意識に口を拭った。
「ルシェル、なにをするのだ!?」
一方、憤懣やるかたないのはエルミアだ。
森を思わせる緑の瞳に怒りをたたえ、実の妹へと詰め寄っていく。
「どうやら、義兄さんは吸血鬼になったようですから……」
「それくらい分かる。きっと、アベルは寿命のことを気にして――と、いや、そうではない」
「まだ分からないんですか、姉さん。吸血鬼には処女の生き血と相場が決まっています」
「くっ」
妹の正論に、エルミアは悔しそうに唇を噛んだ。血が出るほど、強く。
「だが、私はアベルが初めてだったし、アベルしか知らないぞ!」
「それでも、非処女は非処女です」
「アベルにとっては、実質、処女だろう!?」
「アベル、あなたは……」
「人であらんとするため、我、怪物となる!!!」
必要以上の大音声で唱えられた聖句。
それとともに、アベルは心臓をえぐり出した。
心臓をえぐり出すという行為に、拒否感はある。慣れたわけでもない。
だが、この恥ずかしいやり取りをごまかせるのであれば、なんだってやれる。
このままいたたまれない気持ちでいるぐらいなら、心臓をえぐり出したほうが、遥かにマシだ。
胸が血がしたたり落ち、心臓が外気に触れる。
アベルは右手を天に掲げ、そのまま握り潰した。
「義兄……さん……?」
「アベル!?」
「気でも狂いましたの!?」
呆然とするルシェル。驚きに絶叫するエルミア。正直すぎる感想を述べるクラリッサ。
親しい人たちの心配を余所に、アベルの手に、再び赤い刃が現れた。
無言で振り返り、数メートル先に落下したままのシャークラーケンへと突撃。
「とりあえず、死ねっ!」
飾り気もなにもない。
ストレートすぎる言葉。
殺された恨みとか、野放しにできないとか、そういう大義名分はどうでもいい。
ただ、この公開処刑のようなシチュエーションから逃れるため……要するに、八つ当たりで赫の大太刀を振るった。
爆散。
アベルの心臓でできた赫の大太刀が砕け散り、一緒に、足先にサメの頭部を備えたクラーケンも、その肉体が粉々に四散する。
アベルにも破片となった血肉が降りかかり、属性石の指輪を通して、今までにない量の命血が流れ込んできた。
その莫大な量に、アベルは思わず口を押さえる。えずきそうになり、なんとかこらえた。
「……とにかく、今度こそ、終わりった」
主神に封印された魔獣シャークラーケンの死。
左胸に手を合わせ、心臓の鼓動を確認してから、アベルは大きく息を吐く。
無性に、煙草を吸いたかった……が、さすがに、そんな余裕はない。
「アベル! 心臓は、心臓はどうなったんだ!?」
「おっと、俺は大丈夫だからな。心配する必要はないぞ」
駆け寄ってくるエルミアたちを片手で制し、健在をアピール。なし崩しに、いろいろとバレてしまったが、このまま勢いでごまかしてしまおう。それしかない。
「面倒なことになる前に、俺は行くぜ」
軽く。何事も無かったかのように。
颯爽と、踵を返すアベル。
さすらいの英雄のように。
それなのに。
アベルの肩が、手が、襟が。一斉に、がっちりと掴まれた。
「あー……。ええ……と……?」
怖々と振り向く。
アベルの視界いっぱいに飛び込んでくる、笑顔・笑顔・笑顔。
「心配するな、アベル。私も一緒だ」
「ええ。この場はさっさと離れるべきですが、事情はしっかりと確認しておきたいですね」
「不利になるような証言は、わたくしが握りつぶしてあげますわ。そのためにも、しっかりお話ししなくてはなりませんわ、アベル」
主神に封印された魔獣シャークラーケンの死。
それは、単純なモンスター退治では終わらなかった。
吸血鬼となったことを知られてしまい、ある意味で、アベルの社会的な死をも意味していた。
「うむ。我が子がモテモテで、余も鼻高々じゃな」
「マリーベル……。元はといえば……」
吸血鬼のように、華麗な復活を遂げられるのか。
「どうして、こうなった……」
それはまだ、誰にも分からない。
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