「――いいだろう。望むところだ」
「ならば、そのポーションはくれてやる。余は、余の補給をする」
マリーベルは、すっと男に背を向け、すたすたとアベルの下へと向かった。長い髪が舞い、しかし、ドレスの裾は動かない。吸血鬼ならではの、特殊な歩法だろうか。少なくとも、マリーベルに、意識してそうしている気配はない。
「外界を自分の足で歩く。なんとも、不思議な感覚じゃな」
「いや、それどころじゃねえだろ……」
未だに、アベルは動けない。それは、エルミアたちも同じ。
アベルのように視線で対象を制御するのではなく、存在そのもので場を支配する。アベルを遙かに超える血制の効力だった。
「うむ。というわけで、血を分けてもらうぞ」
「いや、待て。血の花嫁のことは、いいのかよ」
「もう、白状したも同じじゃろうが」
マリーベルは、開き直ることにしたらしい。
吸うほうはそれでいいとして、吸われるほう――アベルには、もうひとつ問題があった。
「抵抗しても無駄なんだろうけど……。俺も結構、限界というかなんというか……」
「この状況で、ルシェルやクラリッサから吸えるほど、余は無神経ではないわ」
「そりゃ、まあ、確かに……」
アベルから、ルシェルやクラリッサ。そして、エルミアの顔は見えない。見えないが、あの三人が声も発しないということは、内心すさまじいことになっているのだろうと想像はつく。
「そこで納得してしまうのが、汝の悪いところじゃぞ?」
マリーベルが悪そうな含み笑いを浮かべ、もう我慢できないと動けないアベルのうなじへと牙を寄せる。
「余以外に、そんな反応をしてみよ。悪い虫が、たかりにくるぞ」
実際、そんなかわいい反応をされたら辛抱できるものもできなくなって当然だ。このときばかりは、エルミアたちも、狩人も意識の外。
だが、集中しすぎたのが徒になった。
「おうっ、クルィク!」
「ゥワンッ!」
男を追い立てていたクルィクが、遅ればせながら到着する。
尻尾を全開で振り、《疾風》を使用したようなスピードでアベルへ飛びついた。
不意打ちに対し、マリーベルは反射的に避けてしまった。
事前に気配を察していたら牽制もできただろうが、後の祭り。
「悪い、今、ちょっと撫でられねえんだ」
「ゥワンッ! ゥワンッ!」
問題ない。なにも問題ないと、クルィクはアベルに体をこすりつけた。尻尾は、まだまだ全開。狂喜乱舞という表現でも、まだ足りないぐらいだ。
こうなるとマリーベルも場所を譲らざるを得ない。
「ううむ。しくじった」
どうしたものかと思案するマリーベル。
そこに、クラリッサが声をかけた。
「マリーベルさん、わたくしから吸っても構いませんわ」
「クラリッサ……」
「私も協力します」
「ルシェル……」
「その代わり、負けることは許しませんわよ」
「……もちろんじゃ」
不義理を働いている自覚は、マリーベルにもある。自分勝手なことをしようとしている想いも。
不本意だろうに、それでも協力しようとしてくれる。
その気持ちに感謝の念が溢れるが……しかし、それは少し早かった。
「そして、その辺のあれこれが片付いたら、義兄さんとのそれこれを洗いざらい話してもらいますからね」
「あー」
「話してもらいますからね」
「……分かった。分かったから、そんな目で見るでない」
ルシェルとクラリッサの視線も怖かったが、一番はエルミアだ。なぜ、簡単に瞳から光を消せるのか。あと、無言なのが怖い。喋って欲しい。
「問題ございません。元々、その辺りのことは、私めがお話をする予定でしたので」
「それなら一安心ですわね」
ウルスラのフォローも入り、クラリッサとルシェルが安堵の表情を見せた。
「その場には、余も立ち会うからの。絶対に」
対照的に、マリーベルは厳しい顔。
「というか、ウルスラ。アベルを旦那様などと呼んださっきのうっかりには、仕置きをするからの」
「ご武運を」
お仕置きされると言われても動じず、男装の執事は主人の勝利を祈った。
「まったく……」
これだから、ウルスラのことを嫌いになれないのだ。
そんな想いを封印し、マリーベルはルシェルとクラリッサに向き合った。
「覚悟はできていますわ」
「どうぞ」
「うむ」
短いやり取り。
吸血自体も手早く済ませ、二人から適量血――命血を得る。いつもと違ったあっさりさに二人――いや、エルミアも加えて三人とも驚いていた。
「あれは、アベルが情熱的に過ぎるだけじゃぞ」
「ほう……」
「義兄さんが……」
「情熱的ですの」
「いや? え? 普通じゃねえの? え?」
それを教える義理もなく、マリーベルは男のことを振り返った。
「待たせたの」
「主神の許しを得たというのは、嘘ではないようだ」
マリーベルが置いた、薬神のポーション。
その意味を正確に理解し口にした男は、元通りの指の調子を確かめるように二度三度と拳を握っては開く。
クロスボウの弦を引き、ボルトを装填した。
いずれの動作にも、なんら違和感はない。むしろ、調子がいいぐらいだ。
ここまでの回復力を持つポーションは、神の手によるものとしか考えられない。
「お互い、本調子というところじゃな」
「礼は言わない」
「そんな物求めておらぬと知っとるじゃろうが」
マリーベルが牙を見せ、男はクロスボウを構えた。
「では、余の本性を見せつけてくれよう」
マリーベルが人差し指の先を噛みきった。
そこから流れる血で、宙空に複雑な文様を描く。それは地面に垂れ落ちることなく留まり、マリーベルの瞳に吸い込まれる。
文字通り、マリーベルの目の色が変わった。
紅く深く妖艶な光を放ち、射干玉の黒髪がぶわっと広がるように伸びる。それは体に絡みつき、マリーベルの体を天井近くまで持ち上げた。
肌はより一層白くなり、のみならず、陶磁器のように硬質化する。表情も、不自然なまでの笑顔に固定された。
さらに、顔や、首筋から胸元、手の先にひび割れのような紋章が浮かび上がってくる。
魔王と呼ばれるに相応しい異形。
けれど、それは本質ではない。
変身の途中に、男がクロスボウを放とうとした。だが、それは果たせなかった。
動けなかったのだ。まるで、《支配》の血制を受けたアベルたちのように。
だが、マリーベルがそうしたわけではない。
では、なぜか?
「畏怖……恐れているのか、俺は……」
根源的な恐怖を感じ、男は動くことができなかったのだ。
「余の勝ちで良いかの?」
「ふざけるなっ、ふざけるなよっ」
男は全力を振り絞り、怨嗟の声をあげる。
これで終わりなど、できない。させられない。
「ふざけるな!」
目から血の涙を流しながら、そこまでしてマリーベルの重圧を振り切って、男はクロスボウの引き金を引いた。
源素の加護を得たボルトが、魔王へと迫る。
「残念じゃな」
作られた笑顔のまま、マリーベルが小さく手を振った。
その指先から血が数滴飛び散り、それぞれが大きく膨らみ、人の形を取る。
「《妖術:血の人形》」
生み出されたのは、血の人形。
無貌で、スライムやウーズを人型にしたかのようなモンスター。
そのひとつにボルトが突き刺さり、風船のように破裂した。
必殺の矢は、マリーベルまで届かない。
逆に、生き残った血の人形たちが、外見からは想像のできない滑らかな動きで男へ迫る。
「王を倒すには、まず兵士からということか」
「あまり、ギャラリーにショックを与えたくはないゆえな」
「吐かせ」
男は、腰に吊した無限貯蔵のバッグから銀のショートソードを取り出した。銀コートの上に魔化もされている、退魔の品。
それをほれぼれするようなフォームで投擲すると、銀色の弧を描き血の人形を数体破壊して、また男の手の中へ自動的に戻ってきた。
その間に、クロスボウに次弾を装填する。アベルにも、エルミアにもできない高度な技術。
ダンピールの膂力と、長年吸血鬼狩人として活動してきた積み重ねが可能にする神業だ。
けれど、それも現状維持程度にしか役立たない。
殺しても殺しても、マリーベルの指先からは血の人形が溢れるように生み出されていく。下水道という広いとは言えない空間で、血の人形が男を包囲した。
これでは、《影惑》もどきで身を隠すこともできない。
「くっ」
血の人形に取り囲まれ、ついに男が一体討ち漏らす。
それでも冷静に、銀のショートソードで斬りつけ、始末しようと――したところ。
血の人形が爆発した。
「つうぅっ……ッッ」
爆風に煽られ、固形化した血が体を貫き、吹き飛ばされ、なんとか他の血の人形に触れる前に踏み止まった。連鎖して爆発されたら、それで終わりだった。
「マリーベル……」
やり過ぎじゃないか……という言葉を、アベルは飲み込んだ。
マリーベル自身が手を下すと、殺してしまうかもしれない。もしかすると、そのために、血の人形を創造した可能性もある……のだが。
「降伏せよ。そして、余の要求を受け入れるのじゃ」
異形化したまま男を見下ろすマリーベルの姿を目の当たりにすると、また別の感想が浮かんできてしまう。
「……鬱憤を晴らしているようにしか見えねえのが困りもんだ」
「ゥワオォン……」
アベルに同意しているような、それだけでなく恐れているような。
クルィクのか細い声が、下水道に反響した。
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