『ご主人様嬉しそう すごく』
夜――ファルヴァニアでは朝だが――自室に引き込んだアベルに、コフィンローゼスの中から、スーシャが念話で呼びかけた。
さすがに、常時『ご主人様お兄ちゃん』とは呼ばないようだ。
『ふふふ。分かるか?』
念話でも、いや、だからこそ伝わる機嫌の良さ。
アベルは、ベッド――館にあったものそのままではなく入れ替えた物――に座り、コフィンローゼスを足置きにして微笑む。
普段なら、頼まれても絶対にやらなかっただろう、コフィンローゼスを足蹴にする行為。
それを行っているところに、機嫌の良さが感じられた。
『分かる 今ならコフィンローゼスに座ってって言ったらやってくれそう』
『いや、それは絶対にしないけどな』
いくら中の人――スーシャが許しても、それは断る。
『残念』
『わからねぇ。ほんとうに、わからねぇ……』
なんとなく受け入れてしまったが、足置きにするのも、心理的抵抗を低くするための作戦なのではないかと思えてきた。
『分からないのはスーシャも同じ』
『なにがだよ』
『なにに悩んでどうして解決したのか さっぱり分からない』
そう言われると、アベルも辛い。
悩みなど、本人からすると深刻でも、他人からするとなんでもないことのがほとんど。
『欲望を素直に出して生きれば苦労もしないのに』
『でも、前はマリーベルに本性を隠してたんだろ?』
『断腸の思いで』
表情は分からないが、念話の声音は軽かった。
重荷を下ろして、すっきりしたのだろう。
「まあ、その分、今、マリーベルが苦労しているわけだが……」
苦労を掛けているのはアベルも同じなので、念話では言わない。ただ、心の中で手を合わせる。
こういう形でまとまって、マリーベルも喜んでいるはずだ。
「なんか、マリーベルを故人にしてしまった気がする」
気付かれたら、怒られる。
今は封印されているファルヴァニアの地下にウルスラと一緒に戻っているが、用心するに越したことはない。
『というわけで、スーシャ。そろそろ寝るぞ』
『待ってました』
『は……?』
『嘘 間違い 訂正 おやすみなさいご主人様お兄ちゃん』
怪しい。
だが、スーシャ……コフィンローゼスがアベルの安眠に必要なのは、動かしがたい事実でもある。
アベルはコフィンローゼスから足を下ろし、黒い棺を肩で担いだ。
そのまま部屋の入り口……扉の前にどすんと置いて、自らはベッドに戻ってまぶたを閉じた。
「……なんだ?」
そこは、広い草原。見渡す限りの緑の絨毯が広がっていた。
空には、太陽。空の青は深く、白い雲とのコントラストで、より青く見える。
風はさわやかで、このまま寝っ転がって昼寝をしたくなるほど穏やか。
武器もウェストポーチもなく、アベルは普段着で、草原の中にいた。
「もしかして西の大平原か……って、太陽!?」
吸血鬼となったアベルには、毒でしかない陽光。遮るものはなにもない。直射日光に身を晒している。
しかし、それがアベルを蝕むことはなかった。
暖かく、すべての生命を祝福している。
「館がある場所と、同じような感じなのか……?」
そもそも、館のベッドで寝ていたはずではなかったか。
いつの間に、きちんと着替えてこんなところに来たのだろう?
「吸血鬼特有の夢遊病みたいなもんか? 血制だって、全部知ってるわけじゃないしな……」
とにかく、警戒は怠らない。
そして、この草原を抜けよう。
「ゥワンッ!」
分からないなりに今後の方針を定めたアベルの耳に、聞き覚えのある鳴き声が聞こえてきた。
咄嗟に、聞こえた来た方向――背後を――を振り返る。
「ゥワンッ!」
ウルフカットの少年? 少女? が、赤い髪をなびかせ、走っていた。
顔は中性的で、体型もスレンダーなため、どちらともつかない。
服も、簡単な構造のチュニックで、性別は判然としなかった。
頭からは犬の耳が生え、興奮にぴくぴくと揺れている。
ふさっとした尻尾と一緒に両腕をぶんぶんと振って、アベル目がけて駆け寄ってきた。
「な、なんだ!? 獣人!?」
満面の笑顔を見るに、危険はなさそうだ。
その敵意のなさが、逆に、アベルの行動を狭める。
「ワォンッ!」
数メートル離れた場所から、ジャンプし、アベルに飛びかかる。まるで、肉食獣と、獲物だった。
受け止める格好になったアベルは数歩たたらを踏み、そのまま草原に押し倒される。
草の青臭さが鼻孔をくすぐり、視界には獣人が大写しになった。
「もしかして……」
押し倒された衝撃や危機感よりも、デジャヴにかられ、そちらのほうが気になる。
どこが……というわけではないが、全体的に見覚えがあった。
「まさか、クルィクか!?」
「ゥワンッ!」
正解と! 言いたげに吼え、押し倒す態勢でレロペロレロペロとアベルの頬を遠慮なく舐める。
「クルィク! 本当にクルィクかよ! マジか」
匂いはないどころか、どこかさわやかな香りすらする。
くすぐったさはあるが、決して不快ではなかった。
知り合いに出会えた嬉しさで、アベルが遠慮なく髪と耳をくしゃくしゃに撫でる。力一杯。
「フゥゥゥン……」
すると、獣人化したクルィクから力が抜け、アベルの胸板に顔をこすりつけながら気持ちよさそうな声を出す。
調子に乗ってあごや首筋も撫でながら、アベルはどういうことなのかと考える。
部屋で寝ていたはずが、草原にいて。
太陽を浴びても、なんともなくて。
草原には、獣人化したクルィクがいた。
わけが分からなかった。
「なあ、クルィク。ここがどこだかわかるか?」
「フゥゥン……?」
「どうしてこんな姿に?」
「クゥゥゥンッ……」
アベルの問いに、クルィクは首を傾げて答えた。一緒に、尻尾も垂れ下がってしまう。
言葉が通じていないわけではない。どうやら、本人にも事情が分からないようだ。
「人化できる種族だったとか、そういうことじゃあないのか……」
そうなると、第三者の介入があったということになるのだろうか。
それが人か、マジックアイテムの類なのかは分からないが……。
いきなり草原に飛ばされた状況と、無関係ではないはずだ。
「まあ、こうしてスキンシップできるのは嬉しいけど……」
「ゥワンッ! ゥワンッ!」
「ここはどこで、一体、なにが起こってるんだろうな?」
「クゥゥゥンッ……」
「まあ、分からないよな」
仕方がないことだ。アベルだって、どうして太陽が平気なのか分からないのだから。
アベルはクルィクを体からどかして、立ち上がった。このまま、クルィクと遊んでいるわけにもいかない。
しかし、出発の前に軽い疑問を片付けておきたかった。
「お前、オスとメス、どっちなんだ?」
「クゥゥゥンッ……?」
アベルの疑問に首を傾げつつ、クルィクはチュニックをめくる。
一切の躊躇なく。
白いお腹が露わになった。
「うわわわっ。いい、どっちにしろクルィクはクルィクだもんな」
あわてて、服を戻させる。
今の状況で性別を確認したら、5割の確率で犯罪者だ。丁半博打で勝率4割台のアベルには、分の悪い賭けだった。
「クルィク、人かなんかいる場所、分かるか?」
ごまかすように言ったが、重要なことでもある。
「ウワンッ!」
そう一声鳴くと、クルィクがアベルの背中を押す。
「こっちでいいのか? ていうか、走るのは確定なのか?」
「ゥワンッ! ゥワンッ!」
主人と二人きりで、思いっきり走れる。
その喜びに、クルィクの顔は輝いていた。
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