『ああいうときは、《影惑》の血制で逃げを打つのが良いぞ』
「そんな技もあんのかよ」
『逃げた後のことまでは保証できぬがの』
「まあ、それは今でも同じだからなぁ……って、おいいぃッ」
ちょこんとマントの隙間から顔を出していたマリーベルを押し込め、アベルは走り出した。
何事かと、周囲から注目を受けるが、気にしてなどいられない。あやしい人間がいるで済めば御の字だ。
「いきなり出てきやがって、どういうつもりだよ!?」
『念話を忘れておるぞ、我が子よ』
『うっ。てめえ……』
『そう。吸血鬼たるもの、常に余裕を持って、優雅にの』
正論――ただし、吸血鬼的な――で煽ってくるマリーベルへの罵倒を飲み込み、アベルは走り続けた。
今はまだ、夕暮れ時。
日中ほどではないが、アベルにとって、今や陽光は不快な物の代名詞になりつつある。
アベルにとって、朝の光が猛毒だとすれば、夕陽は温いビールに等しい。
嫌いではあるが、耐えようと思えば耐えられるという意味で。
勢いを失いつつある陽光をマントで遮りながら、アベルは一人ファルヴァニアの街を行く。 どこか、屋根のある場所を目指して。
もう、宿には戻れない。
エルミアも、ルシェルも、クラリッサも、知らない場所へ行かなくては。
『というか、いつから見てたんだよ?』
『三人に、部屋からしょっ引かれていくところからかの』
『実質、最初からじゃねーか』
『うむ。余が口出ししては余計に混乱しそうだから黙っておった』
『俺より長生きなんだろ? 人生経験を活かしたアドバイスとか、なんかあっただろ?』
『ぬかしおる。主神にずっと封じられておった余に向かって、人生経験じゃと?』
『あー。うん。なんかごめんな……』
徐々にスピードを落としながら、アベルは一緒に肩を落とした。
ずっと地下にいたらしいマリーベルに、酷なことを聞いてしまった。恐らく、ずっと一人ぼっちだったのだろう。
数百年の孤独。それがもたらす絶望は、どれほどになるのか。
エルミアと離婚した直後のことを思うと、謝罪の言葉も薄っぺらく思えて口に出せない。
『……いや、待てよ。そもそも、俺が吸血鬼なんてものにならなけりゃ、こんなことにはならなかったんじゃないか?』
『おっ、なんだかいい匂いがするの』
『ごまかすってことは、認めたってことだからな? そこは忘れんなよ?』
酒場での飲食は拒否した小さなマリーベルだったが、食欲はあるらしい。
血の親が指し示す方向を見れば、串焼きの屋台が営業していた。
この世界を再構築したヴェルミリオ神がもたらしたとされる万能の調味料、ショウユ。それをベースに甘辛い味付けのタレを塗って焼き上げた串焼きだ。
肉は、西の大平原に生息している象牛のものだろう。毛深い象のようなモンスターの一種で、気性は荒く巨大だが、肉は牛のように美味い。
「なんにしましょう?」
「親父、四本くれ」
つかつかと近寄ったアベルは、マリーベルの分もと、多めに注文する。
しかし、店主は首を縦には振らなかった。
「うちのは肉がでかいからね。二本で充分ですよ」
「分かった。じゃあ、一緒に串焼きの団子もつけてくれ」
「任せてください」
料金を銅貨で支払い、アベルは路地裏へと移動した。
ここなら人目も太陽も気にならない。
『奥まった場所で、いい年した男が一人でいるとか、露骨に怪しいがの』
『やましいことは、なんにもないぜ』
『本気で言うておるから、恐ろしいのう……』
言いたいことは分かるが聞く気はないアベルは、小さなマリーベルの口に肉の塊をつっこんでやった。
親父の言う通り大ぶりにカットされた肉が、マリーベルの口を完全にふさいでしまう。
『あっ、くぅ……うっ……』
妙になまめかしい声をあげるマリーベルにどきりとするが、念話だと気づいてほっと息を吐く。
『感想はどうだ?』
『粗野なれど、美味なりじゃな』
数百年ぶりの料理だ……と滂沱のごとく涙を流すということはなかったが、それなりに気に入ってくれたようだ。
『そいつは良かった』
適当にうなずきつつ、アベルも串焼きを頬張った。
ファルヴァニアの住民にはおなじみの象牛。やや筋張って噛みにくい面もあるが、マリーベルの言う通り、肉を食っているという原始的な実感も調味料となっている。
タレ自体も甘辛で、肉の脂と良くなじんでいた。
決して、貴族や金持ちの食卓に上る物ではないが、美味さは決して引けを取らない。
しかし、アベルは渋い顔。
「……酒がないとイマイチだな」
『清々しいまでにクズじゃなぁ』
『いやいやいや。肉を食ったら、酒。剣が来たら盾ってぐらい常識だぜ?』
酒がないのに、飯を食う意味などない。
そう主張するアベルの足下を小さな影が駆け抜けていった。
「おっ?」
反射的な行動だった。
アベルは食べ終わった串を手首のひねりだけで投擲し、その影を縫い止める。
「なんだ。ダイアラットかよ」
体の真ん中を射貫かれ、地上で溺れるように藻掻くネズミ。
いわゆる雑魚モンスターには、もったいない神業を披露してしまった。
地面に串刺しになったダイアラットを無感動に眺めながら、アベルはしみじみと口を開く。
『そうか。俺、吸血鬼だったな』
『相変わらず、自覚なさ過ぎじゃろ……。夕暮れ過ぎたら、熱さ忘れるか』
『まったく、言い換える必要性が感じられないことわざだな……』
適当にツッコミを入れながら、アベルはしばし思案にふける。
まだ息があるらしく、チューチューわめきながら暴れるダイアラット。アベルにとっては見慣れた光景。
ダイアラットを一匹駆除したことなど、なんでもないことなのだが……。
「……こいつ、なんで下水から出てきたんだ?」
今になって気づいたが、この路地の先には、下水道への入り口が存在していた。だから、人通りが少なかったわけだ。
しかし、ダイアラットも、理由がなければわざわざ出てくることはないはず。
まさか、アベルが数日休んだ程度で大繁殖などあり得ない。偶然一匹、地上へ出てきただけと断じることもできるが……。
『……俺、なんで吸血鬼にされたんだ?』
『脈絡なさ過ぎじゃろ?』
飛躍したアベルの思考についていけず、小さなマリーベルが呆れたような感情を念話で伝える。いや、分かっていて、とぼけているのか。
『汝を抱擁した理由など、諸々の条件が合致した。そうとしか言えぬな』
『マリーベルが、無理矢理とか邪悪な目的で俺を吸血鬼にすることはないと思っている』
『……分かっておるぞ。これ、上げてから落とすパターンじゃろ?』
『だから、俺のために隠していることがあるんだろ?』
『――なにもないわ』
マリーベルが断言した。
目を合わせることなく。
アベルがさらに追及しようとしたところ、路地の奥――ダイアラットが出てきた方向から、がたがたと音がした。
アベルは反射的に振り向き、マリーベルはマントの中に隠れる。
「おおうっ、アベルのおっさん! なんでこんなところに!? いや、ちょうどいい!」
「……カッツか。そっちこそ――」
「地下にヤバイモンスターが出た」
下水道から出てきた旧知の冒険者――斧使いのカッツ――が、焦燥感もあらわに告げた。
どんなモンスターと戦ったのかまでは分からないが、確かに、装備するブレストプレートはへこみ、血に汚れていた。
「カッツ、お前一人だけなのか? 誰かが――」
「ああ、新人訓練中でな。まだ訓練生とルストたちが取り残されている。俺は、ギルドに走って応援を――」
アベルは、最後まで聞こうとしなかった。
吸血鬼の膂力でカッツから斧を奪い取り、代わりにベルトポーチを引き千切って押しつけた。
「おい、こら待て」
「金は、こっから取っておけ」
「おっさんが払えるわけ……って、白金貨がじゃらじゃらしてるじゃねえか。なにやったんだよ!」
カッツの叫びなど、アベルは聞いていない。聞いていても答えられなかっただろうし、そもそも、答える気もなかった。
慣れない武器を手に、夕闇に吹く一陣の風となって下水道へと飛び下りた。
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