「大丈夫です、ほら。口直しだと思って」
冗談めかして。つまり、本心を隠してルシェルがアベルを促した。
その義妹に、アベルは焦点の定まらない視線を向ける。
エルミアは、なにかを言いかけて、止めた。今にも駆け寄りたい衝動を必死に押さえる。
血を吸われて、ルシェルになにかあったら……とは思うが、今はそれどころではないことも理解していた。
ただ、決意は、さらに固くなったようだった。
「アベル、起き上がれますわね?」
首と頭を支えながら、クラリッサがアベルの上半身を起こした。
まるでアベルを看病しているかのよう……という感慨は、心の中に沈めておく。
ルシェルが立候補した件にも言いたいことはあった。順番というわけでも早い者勝ちというわけでもないが、今は言い争っている場合ではない。
「くっ……」
アベルは、属性石の指輪に意識を集中……できなかった。背骨が氷柱になってしまったかのような悪寒に苛まれ、意識が遠のく。
不意に、暖かいものがアベルの全身を包んだ。
「義兄さん……遠慮せず、どうぞ……」
耳元でささやかれる誘惑の言葉、
その距離の近さで、アベルはルシェルに抱きしめられていることに気付いた。
それだけではない。
ルシェルはアベルの頭を抱き寄せ、自らの首筋へと押しつけた。
大胆な行為。
頬からうなじまでが真っ赤に染まる。
だが、アベルを離そうとはしなかった。
「ルシェル……」
「あっ……」
限界だった。
元々、大した太さのないアベルの理性の糸があっさりと切れる。
アベルにとっては、三度目の。ルシェルには二度目の吸血。
ルシェルが、ちくりとした痛みを感じる。
しかし、それは気にならない程度のもの。
吸っている、吸っている。
アベルが、自分の血を吸ってる。
痛みなどより、その感動のほうが遥かに大きい。
「はうんんっ……。うんッ……くぅんっ」
はしたない声が出そうになって、ルシェルは下唇を噛み締めた。無意識に、ぎゅっと拳を握る。
痛み完全に消え、代わりに快楽。気持ち良さだけが残った。
ぬるま湯に浸かっているかのように全身がとろけ、ただただアベルに身を委ねる。。
吸われている、吸われている。
アベルに血を吸われている。
姉に、クラリッサに見られながら、吸われている。
他人の目を意識したルシェルは、思わず目を閉じた。
しかし、それは逆効果。
抱きしめている、牙を突き立てているアベルの存在が、否応なく大きくなる。いや、それしか感じられない。
二人の境界が消え去り、この世界に二人だけしかいないのではないかという錯覚を憶える。
「はあぁっ……。義兄さん、義兄さん、アベル……さん……」
うわごとのように、ルシェルがアベルの名を呼んだ。
姉とアベルが結婚してから、決して呼ぶことのなかったアベルの名を。
「ルシェル……? 俺は……?」
アベルの瞳に光が戻った。
それは、アベルが回復した証であり、別れを告げるもの。
「義兄さん……」
離れていくアベルを繋ぎ止めることはできず、ルシェルの手が虚空を彷徨い、やがて垂れ下がる。
大きすぎる快楽を受け入れるため、ルシェルは何度も深呼吸をして、無意識に手を握っては開いてを繰り返す。
「元気になって……良かったです……」
「すまない……。いや、ありがとう」
にこりと、透明感があるが儚い笑顔を浮かべるルシェルに、アベルの罪悪感が刺激される。
体内に命血が満ちているのを感じると、なおさら。今なら、心臓のひとつやふたつ握りつぶせるぐらい。
「立てるか?」
「いえ……」
「大丈夫ですわ。しばらくすれば、最初より元気になりますから」
済まなそうにするルシェルを、クラリッサがフォローした。
血を吸われて、最初より元気に?
アベルは頭上に疑問符を浮かべたが、そういうものかと考えるのをやめた。思考停止は、控えめに言っても、得意技だ。
「しかし、見事にやられたのう」
「油断……してたわけじゃなかったんだが……」
すっくと立ち上がったアベルが、鏡台が存在していた眺めながらつぶやいた。
それでも、一撃で撃退できたため、甘く見ていた部分はあるかもしれない。
「館の中にはゴーストの寄る辺となる物品が存在し、それが崩壊すると闇に包まれていた区画が解放される。つまり、その区画にゴーストは入れなくなる……という法則があるのか……?」
「いや、ゴーストが鏡に逃げ込んだ後に、鏡台は壊れてなかったか?」
エルミアの推測に、アベルが異を唱えた。
「ゴーストにある程度ダメージを与えると、その物品を生贄にして逃げ出せるという法則かもしれねえぞ」
「なるほど。順番が逆か……」
だとしても、根本的な疑問がある。
「……なあ、マリーベル。なんか、ゴーストを素手でぶん殴って撃退したように見えたんだが、現実だったのか?」
「……現実じゃ」
「恐らく、ゴーストもびっくりして逃げ出したのではないでしょうか」
気の進まない様子で認めるマリーベルとの間に、ルシェルが割って入った。
クラリッサが請け負ったように、完全に回復どころか、普段より快活に見える。それは、未だ上気する頬が理由かもしれない。
「ルシェル。大丈夫なのか?」
「はい。おかわりいります?」
「……大丈夫そうだな」
マリーベルも、なにも言わないし、大丈夫なのだろう。
心配なら、血が必要な事態にならないようにすればいいだけだと、アベルは無理矢理納得する。
「では、先に進もう」
ルシェルの様子を見てうなずきながら、エルミアが行動を宣言した。
「今度は、絶対に油断せずな」
「ええ。二度と、同じ悲劇を繰り返したりはしませんわ」
「義兄さんは、守ります。絶対に」
途中から、主旨が変わってないか?
そう思うものの、ツッコミを入れるだけの勇気を、アベルは持ち合わせていなかった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!