「マリーベル・デュドネ! お前は、違う! 違うだろう!」
手で顔を覆いながら、男は吼えた。
その声音に、狂乱の色はない。
「魔王。吸血鬼の王。血の殺戮者」
ただただ、深い哀しみだけがあった。
「容赦も温情もない。敵を。吸血鬼ではない生物を殺し、食らい、皆殺しにする。それだけの存在だっただろう」
切々とした嘆きに、全員の視線が男に集まる。
エルミアたちも、一旦、矛を収めざるを得なかった。
「俺の師を殺したお前は、まさに魔王そのものだったではないか」
無限貯蔵のバッグから白木の杭を取り出し、護符のように握りながら、男は言った。
「なのになぜ、ただの娘のように笑っている? ごく普通に言葉を交わしている?」
男はフードを取り去り、チョーカーのように首を一周する傷跡を白木の杭でなぞる。
「俺の首を斬り飛ばし、血を啜り、路傍の石のように捨て去ったお前は、そうではなかっただろう? そうだろう?」
血を刃に変え、その刃で血を奪う殺戮の永久機関。
吸血鬼の支配に抗う人々を鏖殺し、神の使徒すら打ち破り。
そして、最後には主神に討たれ、封印された。
美しくも悪逆なる吸血鬼の王。
それこそ、マリーベル・デュドネ。
自然発生的に魔王と呼ばれた吸血鬼の本質だと、狩人は深い悲しみとともに断言した。
それなのに。
「それでは、殺せないではないか……ッッ」
細く弱々しい声が、下水道に反響する。
吸血鬼だから、悪だから。
殺すことにためらいはなかった。仇だからと追い続けられた。
だが、殺せば哀しむ者がいる。
復讐の連鎖が続いてしまう。
そうなったら、殺せない。
男の信念が、揺らいだ。
「なんだ。あんた、いい人だったんだな……」
男の心情の変化を敏感に感じ取ったアベルが、苦笑いしながらしみじみと言った。
クロスボウで撃たれ、クラリッサを危険にさらしたことへの怒りが、あっさりと消えていく。マリーベルを狙われたことへのわだかまりも、同じように。
それは、男の人として真っ当な。正しい反応で、浄化されたようなものだった。
それと同時に、共感もしていた。
もちろん、アベルには大切な人を殺されたような過去はない。
だが、エルフの里――エルミアとルシェルの故郷を守ったときの戦いで、アベルではなく、どちらかが死んでいたら。
生き返らせることもできず、元凶を取り逃がしていたら。
きっと、復讐に走っただろう。
そして、同じように、事情があることを知ったなら。
きっと、躊躇したことだろう。
男の気持ちが分かるとは、絶対に言えない。言ってはいけない。
しかし、気持ちは痛いほど伝わった。
お互いにそうだったようで、男はアベルのことをじっと見つめていた。
「俺はアベル。マリーベルの子……で通じるか?」
「通じる。俺に名乗る名はない。すでに、捨てた」
魔王の子のわりには、威圧感というものを感じない。
良くも悪くも、吸血鬼らしくない。男には、アベルがそう感じられた。
まるで、師の後をついていた昔の自分のようだ。
そこで、男は、はたと気付いた。
そして、その思いつきは、アベルにも伝わった。
「もしかして、マリーベルを殺す代わりに、俺を殺そうと思ってるか?」
「アベル!?」
「義兄さん!?」
「アベル!?」
突拍子もない、アベルの言葉。
それに取り乱したのは、三人だけではない。
「止めよ、アベル!」
マリーベルも本気で取り乱し、叫んだ。
「アベル、もしかして、あちらも大切な人が殺されてるみたいだから、自分が死んでイーブンだなどとおもっているのではないだろうな?」
「えっと……」
「なんじゃと? そういう問題ではないわ!」
「まさか、マリーベルさんは、吸血鬼の師匠みたいなものだなとか思っているのではないですわよね?」
「だから……」
「アベル!」
声が枯れ、喉が割れ、血がにじむ想いがする。なのに、アベルは困ったように頭をいている。
「分かりました。マリーベルさんに死なれるよりは、ずっといいなどと考えていますね、義兄さん」
「アベル。冗談でも、そんなことを言うのは止めてくれ」
「そうですわ。わたくしたちが、どうなるか分かるでしょう?」
「義兄さんが死ぬぐらいなら私が死にますし、その前に、あの吸血鬼狩人を殺します」
「いえ、それは私めが」
「……いや、待て待て待て」
ウルスラまで参戦したら、収拾がつかなくなる。
全力で両手を振って、無理矢理全員の注目を集めた。
「今の俺には、それはできないって続けようとしてたんだが」
それを聞いて、アベルも成長をしている……と、賞賛する声はどこからも上がらなかった。
代わりに発せられたのは怒声。
「紛らわしいんじゃ。冗談じゃすまぬぞ、このバカモン!」
「勝手に誤解したのはそっちだろ」
「……はっ。茶番か」
そこに、男が冷たい声で冷や水を浴びせかけた。
「分かったぞ。そうやって、事前に示し合わせて、こちらのやる気を殺ぐ気だったか」
「そんな高度な精神戦ができるわけねえだろ!」
アベルが情けなくも真実を語るが、男が信じるはずもない。
こんな馬鹿げたやり取りを、演技ではなく素でできるなど、誰が信じるというのか。
「では、戯言ついでにお嬢様の事情を――」
「――今さら言い訳はせぬよ」
言い訳――理由を口にしようとしたウルスラを、マリーベルが押しとどめた。
時代が違った。
事情があった。
それは確かだ。
けれど、今さら、なんと言っても殺した命は戻ってこない。
「言葉だけで納得できるなら、何百年もこじれはせぬわな」
視線で、ウルスラだけでなくアベルたちもまとめて制し、マリーベルは狩人の前へと進み出る。
「うっ、動けねえ……」
「お嬢様の《支配》……」
マリーベルは振り返らない。手には、分神体から受け取った、ポーションの瓶。
すべて、神のお見通しだった。
しかし、その歩みを止めるかのように、黒い棺――コフィンローゼスの蓋が開いた。
中から現れたのは、淡い水色の髪をした儚げな美少女。唯一、《支配》の影響を受けていないスーシャだった。
アベルを一瞥すると、スーシャは男とマリーベルの間にとてとてとてと走り寄る。
「マリーはそういう措置を受けていた 猛悪化の儀式に耐えられるポテンシャルがあったから選ばれたそれだけ」
そして、句読点のない早口で語り始めた。
「それが正しいと長老たちから言い含められていただけ そっちはイスタス神に断罪されている 武器を振るった者ではなく武器そのものに罪を贖わせるという愚行」
「それは否、だ。仮に余の意思ではなかったとしても、行ったのは余で間違いない」
「親友が傷つくところは見ていられない」
「スーシャ……」
「それに正直に話したらご主人様にご褒美をもらえると思った」
「そういうところじゃぞ!」
最後に本音を口にし、マリーベルの罪悪感すら減じさせるスーシャ。
さらに調子に乗って言葉を重ねるが――
「それにイスタス神もマリーを許した それでもやるのなら神への反逆になる」
「それは、俺には関係ない」
「やぶ蛇だった」
――余計だったと、反省した。
そして、その反省を斜め上の方向に発揮させてしまう。
「というか誰もやれないんだったらスーシャがこの男を殺して終わりにする」
「どいつもこいつも、勝手なことばかり……」
めまぐるしい状況と価値観の転変に、男は苦々しげな声をあげた。
処理が追いつかない。解釈が間に合わない。
「ええい! 誰も彼も、好き勝手に言うでないわ!」
それは、マリーベルも同じだった。
黒髪を振り乱し、ドレスの裾をひるがえし、すべてをリセットするかのような大声をあげた。
スーシャは、その場で飛び上がると、脱兎の如くコフィンローゼスへと戻っていった。
それを見届けたマリーベルは、薬神のポーションを床に置く。
「ひとつ、賭けをしようではないか」
腕を組み、物憂げに。
大きなマリーベルが提案する。
「久々に、魔王マリーベル・デュドネの姿を見せてくれよう」
組んでいた腕を解き、軽く振り下ろしながら宣言した。
「その余から勝利をもぎ取ることができたなら、褒美としてひとつだけそちらの要求を叶えてやろう」
「俺が負けたら、命で支払うのか」
「はっ。そんな命は要らぬわ」
いっそ傲慢に、マリーベルは言い放った。最初からこうすれば良かったと言わんばかりに。
「そちらも、余の要求を叶えればそれで良い。ただし、生涯をかけてな」
黒髪の美女が、口を半月状にして笑う。
その隙間から、牙が覗いていた。
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