のそり、のそりと、ランド・ドレイクがアベルたちに近づいてくる。
真っ直ぐにではなく、曲線を描くように。慎重に、そして、確実に。
偶然遭遇した獲物を、逃すつもりはないと言わんばかり。
人間を遙かに超える身体能力を備えている上に、ある程度の知性すら有している。Cランクの冒険者であれば、複数のパーティで立ち向かうべき相手。
とても、一人でどうにかできる相手ではない。
アベルの冒険者の部分が、最大級の警鐘を鳴らす。
このままでは、のしかかられて、喉笛を食い破られることだろう。
かといって、ただ逃げ出そうとしも、背後から襲われて食い殺されそうだ。
武器を抜いて待ち構えながら、アベルは早速、自らの選択を後悔していた。
勝った分を全額、属性石にチャージすれば良かった。いや、ベルトポーチの白金貨を囮にしでも、この場から離れるべきだ。
「なあ、マリーベル? 俺に吸血鬼の戦いをレクチャーするってのはわかるけどよ。いきなり、あんな大物を相手にする必要はないんじゃねえか?」
「一理あるの」
月光の下で咲く白百合のような笑顔を浮かべ、マリーベルは優しげにうなずき。
「ところで、そうやって逃げ続けて、どこへ行くと言うんじゃ?」
優しげに、退路を断った。
「うっ」
「そもそも、あの程度の獣。逃げる必要もないわ」
「そうだよなー。いつも中途半端なんだよな俺はなぁ。ほんとになぁ、あの時も、もっと別の……」
「いきなりフラッシュバックするでないわッ!」
耳元で叫ばれ、アベルは思わず背筋を伸ばした。
そのタイミングを逃さず、マリーベルはレクチャーを無理矢理始める。
「アベル、吸血鬼となった汝は、我らの根源たる『命血』を感じることができるようになっておる」
「『命血』?」
「うむ。先ほど使用した血制は、精神的あるいは魔術的なものじゃった。今回は、分かりやすく肉体的な力で『命血』を実感してもらうとするかの」
「……具体的には、どうすんだよ?」
「体内の血を意識せよ」
「いや、血って言ってもよ」
血液は、心臓から送られ、全身に張り巡らされた血管を通して、指先にまで達する。
それくらいのことは分かるが、知っているのはそれくらいでしかない。
「そうじゃ、まず、心臓よ。他の不死人どもとは違う。血が流れ、心臓が鼓動するは、吸血鬼のみが特権と心得よ」
慎重にこちらを品定めしているランド・ドレイクから目をそらさず、アベルはマリーベルの言葉を咀嚼する。
『要するに、変な吸血鬼パワーを使うには、自分の血を意識しなきゃならんわけだな』
『……まあ、その通りじゃ』
念話に切り替え、代わりに、アベルは口を呼吸のために使用する。
大きく息を吐き、ゆっくりと息を吸う。
空気を全身に行き渡らせるようなつもりで、体の内部を意識した。
心臓を中心に、血が全身へ流れていくイメージ。
怪我をすれば、その部位から血が流れる。つまり、血液は、そこまで達している。
それを身をもって知るアベルにとっては、さほど難しい想像ではなかった。
『肉体の支配者は、血だ』
やがて鼓動と呼吸が同調し、生命属性であることを示す属性石の指輪を中心に、熱を感じ始める。
これが、『命血』なのか。
「良い」
マリーベルが、短く賞賛の言葉を発した。
それで、アベルは正しい道を歩んでいることを知る。
短いが、疑う余地のない肯定。
それは、アベルにプリミティブな喜びを与える。
だが、ランド・ドレイクには関係ない。まったく、欠片も無関係。
アベルが一段上の境地に達したことなど、知らず。知っていたとしても、行動を変えることはなく。
動かぬ獲物に向かって、突如として、牙をむいた。
突然の、同時に自然な攻撃への切り替え。
アベルが体内の血に気を取られていなかったとしても、避けられたかどうか。
宝石をも砕く牙が、アベルの左腕にかぶりとかみつく。
「吸血鬼は、白木の杭を除けば銀や魔化された刃しか通さぬ。それは真実であり、誤りでもある」
ランド・ドレイクの牙は、確かにアベルを捕らえていた。
人の肉など、骨など、ランド・ドレイクの咀嚼力の前には、薄紙同然。宝石や金貨すらかみ砕く顎の力で、アベルの左腕を食いちぎろうとする――が。
牙は、その肌を通らず。
「体内の血を燃やし血制を発動させ、暫時肉体を硬化させる。強力な吸血鬼は、陽光や白木の杭すら寄せ付けぬ」
ランド・ドレイクがどんなに引っ張っても、腕一本食いちぎることもできない。
「これ即ち、《金剛》の血制なり」
気付けば、アベルの腕は赤い靄のようなものに覆われていた。
その得体の知れなさに、ランド・ドレイクは飛び退る。
アベルは追おうという素振りも見せず、さっきまでかみつかれていた左腕をまじまじと眺める。
左腕を覆う赤い靄。
これが、《金剛》の血制を使用したという証。
これが、自分が引き起こした現象で、飛び退ったランド・ドレイクがその結果。
「はー。大したもんだ、吸血鬼」
「ようやく気づいたか」
「ああ。犬に甘噛みされてるのかと思ったぜ、マジで」
左腕を振って健在をアピールし、犬歯こそ生えてはいないが、アベルはどう猛な笑みを浮かべた。
エルミア――元妻で、元パーティメンバー――が見たら、複雑な感情を抱くだろう表情を。
「さて、アベルよ。もう、分かるな?」
「言葉にはできねえけど、なんとなく分かるぜ」
幾分小さくなってしまったが、属性石の指輪の中心に、熱い血塊が存在している。本来はあり得ないはずだが、それが事実として感じられた。
吸血鬼の根源たる『命血』。
これをどうすればいいかも、本能で理解している。
瞳を閉じ、『命血』を燃やすイメージを浮かべた。
瞳を開き、それをショートソードを持つ右手に集める。すると、今度は、右腕に赤い靄が集中した。
「吸血鬼は、理性持つ怪物である。怪物ゆえ、不死身で、そして、力が強い」
無造作にランド・ドレイクへ近寄ると、アベルは刃を縦にして堅い堅い鱗へと突き立てた。
「これ即ち、《豪力》の血制なり」
安物ではないが、ただのショートソード。
それが、えりまき状に重なった堅い鱗を事も無げに貫通し、ランド・ドレイクの首筋に深々と埋まっている。
刃が鋭くなったわけではない。
ただ、《豪力》の血制によりもたらされた規格外の力が、装甲を突破した。
単純で、それだけに覆すことのできない事実。
狩る者と狩られる者が、逆転した。
完全に気圧されたランド・ドレイクは、その場で痛みにのたうち回る。
のたうち回り、高く鋭い悲鳴を上げ――猫科の肉食獣のしなやかさで、逃げを打った。
賢明な判断。懸命な行動。
「吸血鬼は、理性ある。しかし、人知を越えた怪物である。怪物ゆえに、不死身で、力が強く、そして、目にも止まらぬほど素早い」
ただし、それが許されるかは別の話だ。
「それ即ち、《疾風》の血制なり」
アベルの両足。くるぶしの辺りまでが、赤い靄に包まれる。
次の瞬間。
予備動作もなにもなく、一瞬でアベルが加速した。《瞬間移動》と見まがうばかりの動きで、あっさりとランド・ドレイクに追いついた。
アベルが早いのか。世界が縮んだのか。
確かなのは、体内の血塊を燃やしたアベルが、間合いに入ったという事実。
ランド・ドレイクは、その場で跳躍し、体を反転させ頭上からアベルへ襲いかかる。
本能的な攻撃行動。
それは偶然のフェイントとなり、起死回生の一撃で窮地を脱することすら可能だったかもしれない。
――相手が、アベルでなければ。
まるでそれを予期していたかのように、アベルは動じない。
「《豪力》」
冷静に、マリーベルのアシストなしに血制を発動。
『命血』を燃やし、属性石の指輪を通して体内の血のエッセンスが流れ、左手が赤い靄で覆われる。
アベルはそれをほとんど意識せず、もう一本のショートソードで正面からランド・ドレイクを斬りつけた。
魔法の武器でも、こうはいかないだろうというというぐらい簡単に。スポンジケーキを切るぐらい手応えもなく。
さらに、返す刃でその堅固でしなやかなランド・ドレイク肢体を両断した。
文字通りの血の雨が、アベルへと降り注ぐ。
悲鳴すら上げられず、ランド・ドレイクはその場に落下した。
「……すげえな、吸血鬼」
べったりと血を浴びながら、呆然とアベルがつぶやいた。
ランド・ドレイクの死体など、眼中になかった。意識しているのは、結果だけ。
「無敵じゃねーか、吸血鬼。なんで、神様に負けたんだよ?」
これが自分の実力でないことは、よく分かっている。だからこそ、吸血鬼の血制のすさまじさが身にしみた。
「うむ。実感できたようで余は嬉しいぞ」
そう言いつつも、マリーベルは内心で舌を巻いていた。
転変して、わずか一夜。
わずかな期間で、ここまで血制を使いこなすとは、マリーベルも予想外だった。
それは、アベルの適正か、主神との大戦末期に改造されたマリーベルの特異性ゆえか。
どちらかは分からないし、どちらでもある可能性もあった。
確かなのは、心ならずも吸血鬼へと変じてしまった彼の役に立つだろうこと。
冒険者を廃業するにしろ、続けるにしろ。
そう。マリーベルのささやかな。本当に取るに足らない希望からすれば、続けても止めても構わないのだ。
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