この依頼が終わったら、引退してやる。
そう心に決めて、アベルはギルドを出て下水道の奥へと向かった。
半ば自暴自棄な心境ではあったが、いつもの仕事を、いつものようにこなすだけ。
トラブルが起こるはずもない。完全なルーティンワーク。
いくら心がささくれ立っていても、失敗なんてあり得ない。
そのはずだったのに。
「決めたぞ、ウルスラ。こやつを我が眷属とする」
「……本当によろしいのですか?」
アベルは下水の壁にもたれかかり、朦朧としながら影同士の会話を聞いていた。
どうしてこんな状態になったのか、まったくなにも分からない。
「言いたいことは分かる。だが、高望みというものであろう。それは我らが無為に過ごした数百年の歳月が物語っておるわ」
「そこまで仰せになるのであれば、否やはございません」
意識は霞がかっていて、内容をはっきりと把握できない。
だが、二人ともかなりの美女だということは分かった。
40年の人生経験は伊達ではない。声だけで美人だと分かるのだから、実物はそりゃすごいもんに違いないと確信している。
「冴えぬ男じゃが、我が純潔を捧げてくれよう」
自分に覆い被さろうとしている。
それを感じた刹那、首筋に、ちくりとした痛みが走った。
続けて、心臓が跳ね馬のように暴れ回る。
呼吸が荒くなり、額に汗がにじむ。
だが、苦痛はわずか。
その数十倍の快さを感じた直後、アベルの意識は完全に途絶えた。
「夢……か……」
夢だから当然の話とはいえ、変な夢を見たものだ。
アベルは反射的に起き上がり、あわてて腰を押さえた。不注意にもほどがある。
痛みを予感し、思わず顔をしかめた。
「いたっ……く、ない? って、おいおい。こいつはどういうこったよ」
だが、予期した痛みは、一向にやってこなかった。
ぼさっとした髪を無意識にかき上げるが、答えは思い浮かばない。
「いや、痛くないのはいいこと。いいことなんだけどよ……。こうもいきなりってのも、不気味だぜ」
下水道の夢もそうだが、なにがなんだか分からなかった。自分の人生に、こんなボーナスが降ってくるはずがないという思いがにじみ出ていた。
癖になりすぎて、もはや自分でもおかしいと思わなくなってしまった独り言。
ベッドの上であぐらをかき、冒険者にしては細いが筋肉のついた腕を組みながら、アベルは必死に記憶を整理する。
「この年になると、昨日なに食ったかも思い出すのに時間がかかるんだよな……」
そうなのだ。最近の出来事のほうが、よほど思い出しにくい。昔のことは、忘れたいこともしっかり憶えているのに。
昨日は、いや昨日もそう。
朝からギルドへ行き、いつも通りの依頼を受けたのだ。
下水の掃除――下水道に住み着いているダイアラットの駆除を。
それだけなら、ただの一日だが……。
アベルが冒険者からの引退を決意する出来事があった。
そう。そのはずだった。
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