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第八話

公開日時: 2021年6月9日(水) 21:21
文字数:2,229



「行ってらっしゃい」


なぜそんなに見送りたいのかオレには分からん


あれは持ったか、これに気をつけなさい


もう今から出るという状況にも関わらず


あーでもないこーでもないと言い始める


子供の頃から変わらない


いかにも面倒くさいというこちらの表情にため息をついてもおかしくないはず


諦めてもおかしくないはず 


なぜ毎回見送りにくるのか


愛情であることは分かっている


心配してのことだと分かっている


だからこそ見送りを不快に感じている自分に罪悪感を感じてしまう


優しさは罪悪感の種だと何回伝えても分かってもらえない


自分の性格はねじ曲がっている


自覚している


でもそれがいいんだ


そうじゃなきゃ偽物になってしまう


母親の愛情で


ねじ曲がった性格を真っ直ぐに矯正されてしまうことが


面倒くさくて、つまらなくて、怖かった。


今日は屈辱と苦痛にまみれたチャレンジ


その初日


もちろん見送りにくる。


何時に帰ってくるのか


忘れ物はないか


相変わらずだ。


人差し指を抜いてストンとかかとが靴の中に滑り込む


顔を上げると


見慣れた顔が懐かしく感じた


いつぶりだろう


見送る時の母の顔をまじまじと見たのは


見る気なんて無かった


でも簡単に背を向けることができなかった


ねじ曲がった性格を矯正されるより怖かった


働くことが。


100%自分に向けられた笑顔


母のその笑顔は


オレが何を不安に感じて


何を乗り越えようとしているのか


全てを知っているようだった


何があってもお前には帰ってくる場所がある。


「行ってらっしゃい」


この一言に声にならない声を感じる


その声が聞こえるのは多分世界でオレだけだ


頑張ってくるから


また逃げるかもしれないけど許してね


ありがとう


こちらも声にならない声を一言にまとめる




「行ってきます」











もう、交互に足を回したくない


働くためにこぐ自転車は重い。


両足を地面に着けて


Uターンを試みる


少しの間ピタッと止まってまた前に自転車をこぎ出す


ここでUターンしてしまえば人生もUターンすることになる


履歴書を書くのにホネが折れた


ドキドキしながら電話で面接を取り付けた


脈が打つ度に頭の血管をジンジンさせながら緊張と一緒に面接を受けた


そして採用されたんだ


何のためか。


オレには倒さねばならない悪鬼がいる


林野。


林野の“あの笑み”を奪うという目標がオレにはある

ゲームでの借りは必ずゲームで返す 


そのためには金がいる


ゲームを買う金が。


金を得るためには働く以外にない。


あるならぜひとも教えてほしい。


何よりここで引き返せば林野ではなく母親の笑顔を奪うことになる 


やはりオレにとって「見送り」は重たい愛情のようだ。


ふーっ。


サドルに半分体重を預けつつ背伸びした両足を地面に着けながら呆然とする


目の前には自動ドアがあるのだが


いくら近づいても自動で開いてくれない


もしやと思い自転車から降りて試してみたが手動でも開かない


ここが勤務地であることは間違いない


昨日面接に来たのだから。


昨日来た時はちゃんと自動ドアでしたよ?


目の前のドアはまるでここで引き返せと言わんばかりに閉ざされていて店の中は真っ暗だ。


オレの未来もここで閉ざされてお先真っ暗ってか。


引き返す大義名分を手に入れてじゃあ引き返すかと少し胸を躍らせた瞬間、暗闇からモワモワと人影が近づいてきた


のぼりかけている太陽の光に照らされて入り口付近はほのかに明るい


エプロンをしているその人影は必死にこっちを見ては後ろを振り返りまたこっちを見ている


あなたと僕とをさえぎっているそのドアをそちら側から開けてくれればいいだけなのだが


エプロンをした人影はジェスチャー混じりにあたふたしている


ジェスチャーでさしているその指は店の奥をさしている


察するに、回り込んで裏から入って来いということらしい


裏口に向かうフリをしてそのまま帰りたい気持ちを押し殺し


重い足を交互に回して何となく裏っぽいところにたどり着いた


「ごめんなさい、裏からしか入れないんです」


先程のあたふたしていた人影はいかにも優しそうな風貌の奥様だった。


矢真さんという方らしい


笑顔がまるで通常営業であるかのようにニコニコしている


ただの第一印象に過ぎないが


人一人来ない秘境のような


自然で天然な優しさを感じる


優しそうな人でよかったと思う反面こういういつもニコニコしている人間こそ簡単に信じてはいけない


裏があった時に逆振りをくらうのでいちお警戒しておこう。


矢真さんが言うには店の中にもう2人居るという


3人体制で新人のオレを指導しようという筋書きらしい


大学生の前松さん


オレより年下か。


「はじめまして前松です」


社会に属することに迷いがないタイプに見える


乾いた愛想の使い方をする


なぜか初対面であること以上の緊張を感じる


まあ、何というか、美人だ。


少し働くのが楽しくなるかもなと思う反面こういう美人こそ簡単に信じてはいけない。


美人にはどうせ裏があるので警戒しておこう。


そしてラスボス


店の長と書いて店長。


この人がこの場における絶対的支配者。


時給が発生しているその時間は奴隷となるそのご主人


この人が直接給料をくれる訳じゃない


にも関わらず絶対的な主導権を持っている


それが社会のしきたり


雇われるものに人権などない


真正面から最重要要注意人物である。



まあ中の人間関係はこれからだ


とにかく第一関門は突破した。


この門が一番高くて越えられなかった壁


敵前逃亡を繰り返してやっとここまでたどり着いた


ここからが本番


自己紹介という名の白々しいファーストコンタクトを終えたとなると


いよいよ引き返せない


蚊の鳴くような声が心の中で響く







帰りたい...。









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