「あ……! 起きたっ!」
「ん……? んん……?」
目を覚ました時。彼の視界に真っ先に飛び込んで来たのは、自分を覗き込む黒髪おかっぱの少女。まちの黒い瞳だった。
「おっかあー! この人起きたよー! おっかぁー!」
まちは彼が目を開けたのを見ると、その目と口を大きく開けて驚きとも笑みとも取れぬ表情を浮かべ、ぱっと飛び退いて階下へと駆けだして行ってしまう。
「あれ――――俺は、なにしてンだ――――?」
目覚めた青年――――六業は、目の前で起こった一連の流れを理解するのに暫くの時間を要した。
整った板張りの部屋を見回し、自分の手のひらを握り、開く。
自分が寝かされている布団は六業の長身にはいささか小さく、ふくらはぎのあたりからは完全に床の上にはみ出していた。
そのはみ出した六業の足下を補うためだろう。その部分にだけ感触の違う木綿の座布団が敷かれており、六業は自分の身が少なくとも乱雑に、敵意を持って扱われていないことに安堵した。だが――――。
「――――俺は。六業――――いや――――」
横になった体勢からゆっくりと身を起こし、どこか信じられないという様子で視線を下に向ける六業。六業は虚ろな。しかし決断的意志を込めて次の言葉を発した。
「俺は――――六郎だ。六郎だよ……六郎だろ、俺は――――っ!?」
六業――――否、六郎は、誰も居ない部屋の中で確かにそう言った。
言葉に出し、その震える手を握り締め、ずっと失われていた何かを取り戻した暖かさと――――そして、悲しみに震えた。
――
――――
――――――
「ほんっっっとに……助けてくれてありがとうございました。旦那さんや女将さんのおかげで……こうして元気になりました。えっと、なんつーか……なんて言ったらいいのか……とにかくすげえ感謝してます……っ!」
「おいおい、そんな畏まらんでも。礼ならまちに言ってやっておくれ。あの子が川で倒れてたあんたを見つけたんだよ」
「はっはっは! 運が良かったなぁあんた! まちは猫を拾ってくるのも得意だが、ついに人まで拾ってきやがった! 招き猫ならなぬ座敷童だ。こりゃあうちの稼業は百年安泰なんじゃねえか? なあ!」
六郎が目覚めてから暫くの後。
部屋の隅に置かれた行灯の橙色の光と、座敷中央でパチパチと小さく燃える囲炉裏の前。
その身を正した六郎が、床の上に両手をついて深々と頭を下げまちの両親に向かって自身を助けて貰ったことの感謝を述べていた。
いきなり深々と頭を下げられたまちの両親はむしろ困惑しきりとなり、深々と床に頭をつける六郎の肩をぽんぽんと叩いてその顔を上げるように促した。
「いや……実は俺、まだいまいち頭の中がぼーっとしてるっつーか……。マジでなんも持ってないんすよ……。なんか俺に手伝えること、あります? 教えて貰えればなんでもやるんで――――」
「そうかいそうかい。ま、そこらへんの話は今は置いておこうじゃないか。こう見えてうちはね、結構ここらでも有名な店なんだよ。お陰様で連日繁盛してる。ちょいと店を手伝ってくれさえすれば、いくらでも休んでいてくれて構わんさ」
まちの父親から顔を上げるように言われ、しかしそれでもまだ神妙な様子でその顔を曇らせる六郎。しかしそんな六郎に、まちの父はどこまでも穏やかな口調でそう言った。
実の所、まちの父はこの一角の町民を束ねる年寄り衆の一人であった。
当時の江戸において、年寄り衆の町民に対する権限は絶大だったが、それと同時に同程度の責任を課されてもいた。
自身の管轄下の区間での捨て子、及び行き倒れの保護、そしてその介抱と養育の任がそれである。
もしまちの店の前に親の分からぬ子が捨てられていれば、その子はまちの家が責任を持って育てなければならない。
江戸の町民にとって年寄り衆はもう一人の親とも言えるような存在であり、年寄り衆もまた、自身が面倒を見る町民達の冠婚葬祭や祝い事には必ず顔を出した。
年寄り衆は幕府からそれに見合う給金も支給されていたため金銭的には余裕があったが、それら年寄り衆の中でもまちの父は特に町民からの信頼が篤い、優秀な顔役だったのだ。
「お兄ちゃんね、すごく長い間寝てたんだよ? まだ無理しない方がいいって、お医者様も言ってたよ……?」
「まちちゃん……」
そしてそんな父親の横。まだ僅かに窺うような、警戒するような様子を見せつつも、その大きな瞳を輝かせて六郎を見つめるまちが心配そうに声をかける。
次々と自分に向かってかけられる暖かな言葉に、六郎はまるで心の臓を射貫かれたように胸を押さえ、苦しげに呻いた。
「まちの言う通り。ずっと寝てたってのはともかく、なんも食ってないんじゃ死んじまうよ。 ――――ほら、我が家自慢のどじょうの蒲焼き。うちはどじょうならいくらでもあるから、好きなだけ食べるといいさ」
「アア……ありがとう、ございます……っ。すんません、俺……っ! 俺は……こんな……っ! なんで……っ! う、うう……っ」
まちの母から出された、暖かな湯気が立ち上る豪勢な料理。
それらを前にした六郎はついにその目から大粒の涙を零し、何度も、何度も頭を下げた――――。
六郎は覚えていた。自身が鬼であることを。
黄の小位――――六業として無数の人々の命をその手にかけ、多くの血を流してきたことを。
そして奏汰達と戦った、あのはぐれ鬼の門での戦いのことも――――。
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