「にゃはは! 今日も市中は賑わっておるの。よいことじゃ!」
初夏の陽気に照らされ、大勢の人々が行き交う江戸における商家と町民の中心地の一つ、神田町。
幅広で清潔な砂利道の左右にはずらりと大きな平屋や二階建ての商家が軒を連ね、大通りから僅かに奥に行けば、様々な分野の技術を持つ職人達の長屋街がどこまでも続いていた。
通りの幅はそれこそ十メートルはあるのではと思えるほどに広かったが、道行く人々の多さはその広さでも全く足りておらず、肩に担いだ重そうな荷物や荷車を押す人足達は、周囲の人々にぶつからぬように――――または時折ぶつかりつつも、目的地へと急いでいた。
「いい加減慣れてきたけど、それでもやっぱり凄い人だな……! 東京は昔からこんなんだったのか!?」
「とうきょう……。ほむ、奏汰のいた先の時代の江戸のことじゃったな。今から百年、二百年と経っても皆が面白おかしく過ごしておるのなら、それはとても喜ばしいことじゃの!」
「ははっ。凪の言う通りだな! もうあんまり覚えてないけど、確かにみんな平和に暮らしてたと思う。そもそも鬼とかいなかったし!」
神田町の大通りを凪と連れ立って歩きながら、かつて自分が住んでいた時代との違いを懐かしそうに語る奏汰。
そして今。そう言って笑う奏汰の手には、藁で編まれた小さな籠がしっかりと握られていた。
籠の中には今朝から半日ほどかけて凪が奏汰のためにしたためた『勇者商売』の宣伝用チラシが二十枚ほど重ねて入れられている。
「奏汰のいたとうきょうのように、皆が平和に暮らせる町にするためにも、やはり鬼共は根こそぎ祓ってやらんといかんの! ほれ、さっそく一件目の麦湯屋が見えてきたのじゃ!」
「お! あの字なら俺にも読めるぞ! 麦だ! 旗に麦って書いてある!」
「そりゃ麦湯屋だからの……。あそこでは麦で煎れた茶と、団子なんかも食えるのじゃ。暑くなってくると驚くほど賑わうでな、宣伝するにはちょうど良いのじゃ!」
目当ての麦湯屋を見つけ、宣伝の意義を説明しながら店の軒先へと歩いて行く奏汰と凪。
凪の言う通り、正午を過ぎた今の時間は、ちょうど休憩中の人足達や見廻り組の男達でうるさいほどに賑わっていた。
「へいらっしゃい……! って、誰かと思えば神代んとこの姫様じゃないですかい!? こいつは珍しいこともあったもんだ!」
「邪魔するぞ」
「お邪魔しまっす!」
凪と奏汰が共に大きく開かれた店の扉をくぐると、そこにはいくつも長椅子が何列も並び、着物姿の人々が膝の上や自分のすぐ隣の椅子の上に湯飲みや皿を乗せ、思い思いに会話や憩いの時間を楽しんでいた。
「ほむ、暫くぶりじゃな馬三郎」
「いやぁ! さすが姫様は相も変わらずお美しいことでっ! そんでもって……そっちの鬼みたいにデケぇのは……?」
店に入ってすぐに凪の姿を見た店主――――馬三郎と呼ばれた浅葱色の着物の中年男性が威勢の良い声で二人に声をかける。
馬三郎はどうやら凪とは顔なじみらしく親しげな様子だったが、凪と共に現れた奏汰には目を丸くして怪訝な表情を浮かべている。
「初めまして! 俺は剣奏汰! 勇者だ!」
「へ、へえ……? ゆうしゃ……ですかい? なんでぇそりゃあ?」
この時代、男性の平均身長はそれこそ150センチ半ばもない。現代でもやや長身の部類に入る174センチの奏汰は、江戸の人々から見ればまさに鬼のような大男と言って差し支えなかった。
「実はの、お主も先日の鬼とあやかし衆の大戦は聞いておるじゃろ? ここにいる奏汰は、その大戦で見事大位の鬼を討ち果たした男――――こう見えてまっこと天晴れな奴なのじゃ!」
「な、なんだってえええええ!? た、確かにあっしもあの戦で大位の鬼を討ったってのは聞いてましたが、てっきりあやかしのお狐様か、それこそ姫様がやったもんだとばかり……! ほ、本当ですかいそりゃあっ!?」
「あれは俺だけじゃないだろ!? 凪も一緒に戦ったし、玉藻さんにも危ないところを助けて貰ったし……!」
「にゃはは。そう謙遜するでない! あやつの相手は私一人じゃどうにもならんかった。正真正銘、奏汰の手柄じゃ!」
どこか自分のことのように誇らしげに語ると、凪はそう言われて戸惑う奏汰の背中をバシバシと笑いながら叩く。
だが、凪のその話し声はしっかりと店内に響いていた。
江戸中で噂になっていた、大位の鬼を討ち果たしたというその張本人が、たった今目の前にいるという事実に、店内の様子がにわかに一変する。
「それでの、実は奏汰はまだ江戸に来て日が浅いのじゃ。こんなに強いのだし、なにか商売でも始めないかと私からも勧めておって――――」
そんな店内の様子には目もくれず、凪は奏汰の持つ籠の中からせっせと作った宣伝チラシを取り出すと、店主の馬三郎に事と次第を話し始める。しかしその時――――。
「ちょっといいですか? 今のその話、僕にも詳しく聞かせて貰えませんか?」
店主の前でいそいそと和紙を広げてみせる凪の横から、良く透る美しい声が響く。
見ればそこには、かっちりとした印象の淡い藍色の小袖と袴に身を包んだ、深緑色の短髪が幼い印象を与える見目麗しい少年が立っていた。
しかしいかに幼く見えるとはいえ、少年の腰には二本の刀がしっかりと携えられており、彼が武家の者であることがうかがえた。
「ほむ? なんじゃお主は?」
「これは申し遅れました。僕の名は徳乃新九郎、討鬼衆で見習いをしている者です。以後お見知りおきを、神代の巫女様」
新九郎と名乗ったその少年は、その大きな二つの瞳を輝かせると、なにやら妙に自信満々な様子で奏汰と凪に胸を張るのであった――――。
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