炎に包まれた江戸城。
境界の力を操っていた五玉が潰えたことで、江戸城はすでに現世へと帰還した。
しかしそれは同時に、江戸に住む人々の目から江戸城の大火が目視できるようになったということだ。
漆黒の夜空を赤く染め、まるで夕暮れ時であるかのような輝きと共に崩れ落ちていく江戸の象徴。
それを見る江戸の人々の心は否応なくざわめき、何か自分達の与り知らぬ巨大な何かが始まり――――もしくは終わろうとしているのだということを予感させた。
「凪さんっ! こっちですっ!」
「分かっておる! しかし酷い有様じゃ! 皆無事だとよいのじゃが……っ!」
そしてその炎の中。一目散に父である家晴の元へと向かいたい衝動を抑えながら、あえて炎の城内を突き進む凪と新九郎。
すでに新九郎にとっても凪にとっても、二人が持つ本来の身体能力を発揮すればこのような炎など何の障害にもならない。
当然、現世へと帰還した二人はすぐさま燃えさかる江戸城本丸御殿へとその身を躍らせた。しかし城内には多数の討鬼衆や旗本、馬廻衆が未だに鬼と死闘を続けていたのだ。
二人はそんな彼らを援護、炎上する江戸城からの離脱を促しながら本丸御殿へと向かっていた。
それは特に父との再会を求める新九郎にとってはもどかしい状況ではあったが、だからといって、必死に戦い続ける仲間たちを見捨てる気など二人には毛頭なかった。
「こんな……こんなことになるなんて……っ! 父上――――どうか、どうかご無事で……っ!」
「そう心配するでないっ! このように城の場所が現世に戻ったと言うことは、恐らく奏汰や玉藻も私らと同じように帰ってきておるはず。皆で力を合わせれば、きっとなんとかなるのじゃ!」
「凪さん……っ! はいっ!」
崩れ、炭化して頭上から降り注ぐ火の粉を切り払い、幾重にも展開した結界で穿ち抜きながら謁見の間へと駆け抜ける二人。
知らず、不意に新九郎の胸にこみ上げる大きな思い。
今目の前で炎の中へと消えていく光景。そこは彼女が生まれ、育った場所だった。
父と母との思い出だけではない。城内で暮らす大勢の臣下と共に過ごした日々は、その全てが新九郎にとって掛け替えのない物だった。
温かな記憶が存在しない場所など一カ所たりともなかった。
幼い頃から母を探し、父を探して走り回った長い廊下も、日当たりの良い最高の昼寝のための隠れ場所も――――それら全てが炎に包まれて消えようとしていた。
五玉の遺した、全ては幻という言葉――――。
こうして炎によって一瞬で消えていく江戸城の姿に、新九郎はまるで自身の大切な記憶や思い出までもが、次の瞬間には跡形もなく消え去ってしまうかのような悲しみを覚えていた。
(父上――――……っ! 父上、どうか――――どうか――――っ!)
今すぐ全てを尋ねたかった。母のこと、この世界のこと、それに自らがついに天道回神流の終型に至ったこと。
疑問、憧れ、寂しさ、温かさ――――全てがない交ぜになった父への思いが新九郎の胸を満たし、炎の渦の向こうで待っているはずの父の姿を求めてその疾駆を逸らせた。そして――――。
「父上――――っ!」
ようやく辿り着いた本丸御殿、謁見の間。
日の本の誇る木材建築技術の粋を集めて生み出された壮麗なその場所は、今や見る影もなく火の海に沈んでいた。
その炎の向こう。ちょうど二段に渡って上位となった上座の中央。
新九郎の求めた父の背中は、たとえ炎の中でもいつもと変わらずそこにあった。
雄大に剣を構え、眼前に対峙する紫色髪の勇者――――エッジハルトをただまっすぐに見据え続けていた。
「父上……っ! 良かった――――ご無事だったんですね……っ!」
「っ!? 待つのじゃ――――新九郎っ!」
だがその瞬間。新九郎めがけて光が奔った。
その光は炎も黒煙も、すでに崩落を開始していた江戸城そのものすらを果てなく切り裂き、標的となった新九郎もまた容赦なく両断せんと迫る。
しかし凪はその光に気付いていた。否、正確には正面で対峙する家晴とエッジハルト、この二人以外の存在に気付いていたのだ。
「く――――っ!?」
「へぇ……よく今のに反応出来たね? それだけじゃなく、僕の一撃を逸らせる障壁をあの一瞬で構築するなんて。 ――――もしかして、例の大魔王の血族っていうのは君かな?」
「な、凪さんっ!? なに……!? 何が起きて……!?」
それは刹那の交錯。
凪は与えられた一瞬の猶予でありったけの力を注ぎ込んだ結界を展開、しかし放たれた閃光はその結界を容易く打ち砕く。
しかし凪はそれによって生まれた一瞬の隙に新九郎を抱いて地面へと伏せ、閃光による即死をギリギリで免れていた。
「五玉も煉凶も本当に良くやってくれたね――――二人のお陰で、エッジハルトだけでなくこの僕も、こうして現世へと自由にやってこれるようになった。そして――――」
「え――――?」
謁見の間の床へと這うようにして退避した新九郎と凪から見て側面。黒と赤の甲冑に身を包んだ見目麗しい少年がその場へと歩み出る。
しかし新九郎は、現れたその少年よりも別の光景に目を奪われていた。
紅蓮の炎と黒煙の向こう。
父の背が――――ゆっくりと倒れていく。
「危なかったねエッジハルト――――僕がこうして助けに現れていなければ、恐らく君は負けていた。間に合って良かったよ」
「ちち……うえ?」
現れた少年の言葉に、エッジハルトは何も言わなかった。ただ沈痛な面持ちで両の眼を閉じ、歯を食いしばりながら静かに、ゆっくりとその聖剣を鞘へと収めた――――。
全ての武士の頂点。徳川家晴はもはや動かなかった。
ゆっくりと地面へと倒れ、それと同時にその片腕がその身から離れる。夥しい量の鮮血が炎の中に飲まれ、握り締めたままの剣を赤の中に沈めた――――。
「あ、ああ――――……ああああああああああああああああ――――ッッッッッッ!」
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