青く輝く満月の下。
そこだけが大きく円形に踏みならされ、青草の密集もそれほどでもないススキ原の上を、じっとりと湿気を含みながらも冷ややかな風が渡り抜けていく。
一帯の周囲にはしっかりと組み上げられた篝火が一定間隔で灯されており、その横には赤と黒の陣羽織を着た討鬼衆の姿も見えた。
尋ヶ原。
数年前まで幕府の練兵場として使われていた土地であり、幾度も踏みならされた土地は、未だに幕府預かりとして放置されたままとなっている。
周辺からは断続的に蛙の鳴き声が聞こえ、遠くに見える江戸の街灯からは、今も人々の喧噪の音が僅かに届いていた。
そしてその尋ヶ原のちょうど中央。
肩口から漆黒の布地に金刺繍のあやかし外套を纏い、普段の甚兵衛姿ではなく、江戸へとやってきた際に身につけていた異世界最強の防具――――勇者の装束を身につけて完全装備となった奏汰が周囲の仲間たちに声をかける。
「よし……! みんな、準備はいいか!?」
「のじゃー! 私は準備万端心配ご無用じゃ!」
「は、はいっ! やれます! やってみせますっ!」
「俺も俺も! いつでもオッケーよカナっち!」
すでに奏汰の周りには凪、新九郎、そして六郎が、やはり各々が死地へと赴く際に適切だと思われる最善の装いで集っていた。
凪はその脇口からタスキを掛けて袖裾を絞り、新九郎もまた討鬼衆の正装である赤黒の陣中装束と、薄金の軽装鎧に身を包んでいる。
六郎だけは普段通りの作務衣姿だったが、恐らく今日も陽禅から教えられた治療を行ったのだろう。
その服の襟口から覗く漆黒の蛇の紋様は、六郎の気の充実を示すかのように満月の光の下でほのかに輝いていた。
「剣様、姫様――――どうか、お願いですからご無理だけはなさらぬよう。我々もぬかりなく準備はしておりますが、相手は大位。どのような仕掛けを繰り出してくるか予想はつきません」
「うちらの配置もあらかた仕上がった。だがだからって俺たちをあてにするんじゃねぇぞ? 俺たち討鬼衆はお前らを助けるために来たわけじゃねえ。ここに来る大位二体。お前らが仕留め損なった時に確実にぶち殺すために出張ってきてんだ――――抜かるなよ、新九郎」
「玉藻さん、四十万さん。いきなりだったのにこんなに準備してくれてありがとう。どこまでやれるかわからないけど、やってみるよ!」
「ほむほむ。そう心配するでない。今回はこの私も色々と新技を引っさげておるでの! 玉藻も見たら驚くのじゃ!」
「はい……っ! 徳乃新九郎。必ずや討鬼衆の名を汚さぬ戦いをしてみせますっ! た、たぶん……! なんとか……っ!」
そしてそんな奏汰達の元に、今回の果たし合いの立会人としてあやかし衆、討鬼衆を率いて訪れた玉藻と四十万がやってくる。
あの日、陽禅からの果たし合いを受けると決めた奏汰たちはすぐさま二人へと連絡し、こうして準備を整えて貰っていた。
「で――――お前が六郎だな。位冠持ちの鬼――――記憶がないとはまた都合のいいことを言いやがる」
「アー……いや、まあ……そうッスね。俺も正直都合がいいこと言ってると思うンで、返す言葉もないッス。ハイ……」
「今はこうして泳がせちゃいるが、この果たし合いで剣や新九郎相手に騙し討ちなんざしようものならこの俺が即刻ぶち殺す。肝に銘じておけ――――」
「この玉藻前、あなた方鬼の境遇には同情も致しますし、鬼も救うという剣様の情熱さとひたむきさをご助力したいとも考えております。しかしながら、それ以上に真皇の力の強大さを知っているのも事実――――四十万さんが言うとおり、あなたが真皇の闇に呑まれるというのなら――――その際は私も容赦は致しません」
「――――それでいいッス。そン時は、どうぞ遠慮せずやっちゃって下さい」
玉藻と四十万。双方は互いの胸中の違いこそあれど、六郎に対して鋭い警戒心を宿した眼差しと警告を向ける。
それを受けた六郎はややバツが悪そうに俯くも、しかし二人の態度は当然であると受け入れて頷いた。
実際、六郎自身でもなぜ今こうして真皇の支配から一時的にでも逃れられているのか。そこは全く不明のままなのだ。
突如としてその自我の主導権を真皇に再度掌握され、果たし合いの最中に奏汰たちを背後から襲うとも限らない。
そういった意味でも、四十万や玉藻のその言葉は厳しくありつつも、六郎にとってはどこか有り難く、心強いものでもあった。そして――――。
「キキキキ……おやおや、これはこれは皆々様。どうやらお揃いのようですねぇ……?」
「――――来たなっ!」
広大なススキ原に立つ奏汰たちの耳に、耳障りな甲高い声が届いた。
そして次の瞬間。彼らが立つ場所から丁度十メートルほど離れた草地の上に、三体の大位が、その強大な力で周辺領域を歪ませながらゆっくりと降り立ったのだ。
「そちらがこのように大挙して押し寄せるは百も承知。我らもこの紫の大位――――五玉が立会人を務めさせて頂きますよ。まさか断りはしますまい? キキキキ!」
まず現れたのは、まるで後に続く二人の先導をするようにして現れた小柄な四つの面を持つ鬼、五玉。
そして五玉から僅かに遅れ、灰色の軍服じみた制服と帽子を纏い、黒の革ブーツと革手袋を手足に身につけた陽禅が。
更には赤銅色の巨躯に漆黒の袴を履き、三メートルにも達しようかという自身の体躯とほぼ同等の長さを誇る大剣を構えた鬼――――煉凶が続いた。
「――――やあ六業。こうして私の申し出を受けてくれて嬉しいよ」
「久しいな異界人。いや――――剣奏汰よ。今宵は滾る一時になりそうだ」
眼前に現れた三体の大位。過去数百年にわたり、大位三体が同時に並び立ったという記録は幕府にも残されていない。
その圧倒的な威圧感に、四十万は我知らず舌打ちし、玉藻すらその背に冷たい物が流れるのを感じていた。
だがしかし――――その身に破邪の力を宿した蒼穹色の勇者装束を纏った奏汰は一人前に進み出ると、一切の怯みを見せずに気勢を上げた。
「ああっ! 俺はそれで構わない! それよりも、俺たちが勝ったら六郎や他の皆には手を出さないって約束、本当だろうなっ!?」
「――――私としては不本意だけどね」
「六業の処遇はすでに我らが主、黒曜の四位冠の承諾を得た。信じるか信じないか。それは貴様らの自由だ」
「キキキ……! 真皇様の気が変わらぬうちは保証されましょうなぁ。それが明日なのか、何万年後なのかは我らには到底及びもつかぬ話ですがねぇ……?」
奏汰の張り上げたその声に、三体の大位は各々に別々の反応を見せた。
しかしどちらにしろ、奏汰たちが果たし合いを受けた理由は六郎の解放だけが目的ではない。鬼の中でも中心的な存在である大位の鬼。その戦力を削ぐためにこの場へとやってきたのだ。
「陽禅サン……煉凶サン……それに五玉サン……俺は、正直アンタたち皆のこと、今でも大事だと思ってる……。俺が真皇サマにどうこうされたとか、そういうの抜きで、アンタたちと一緒にワイワイやれたの、楽しかったって思ってる俺がいるンだ……」
そして前に出た奏汰の横。
心の底からの苦しみを吐露するようにして、沈痛な面持ちの六郎が続いた。
「アンタたちだけじゃない。零蝋の姐サンも、しみったれた雲柊の奴も、ちんちくりんの風断も――――俺にとってはみんな大切な仲間だった。今だってそう思ってンだ――――ッ!」
それは、六郎の心からの正直な思いだった。
周囲には四十万も、玉藻も討鬼衆もいるのだ。そこで鬼への忘れざる想いを吐露することは、今の彼の立場として大きな不利益になるだろう。にも関わらず、六郎はそう伝えずにはいれなかった。
「六業――――……っ! そう思っていてくれるというのなら、今からでも私たちのところに……っ!」
「けど――――ダメだッッ!」
その六郎の想いに胸を打たれ、思わず駆け寄ろうと手を伸ばす陽禅。
しかし六郎は、たった今紡いだ全ての言葉と想いを断ち切るように叫んだ。
「大切だから――――! 大好きだからダメなンだよ! 俺は陽禅さんにもずっと良くしてもらって――――でもそれは本当の俺じゃなくてッッ! そんな嘘っぱちの、嘘だらけの俺で大切な人と仲良くなんてしてられねぇンだ! 俺は――――ここで俺を取り戻すッッ! アンタたちとのことは、全部それからだ――――ッ!」
「ろく……ごう……ッ」
それはまるで、六郎のその叫びに呼応したかのよう。
満月を薄く隠していた雲が晴れる。
その下で見つめ合う黄の鬼二人。一方はその縦に割れた深紅の瞳に決意を、一方は金色に輝く瞳に迷いと憂いを宿す。
光と闇。
まだらに晴れた満月の光は、六郎や奏汰の側のみを静かに青白い光で照らした。
境界に隔てられた六郎と陽禅の視線は、確かに深く交わりつつも、最後まで同じ願いを見つめることはなかった――――。
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